日本の思いやりに包まれて=「日本も中国も教えてこなかった日本人の貢献」―中国人女性

日本僑報社    2015年3月27日(金) 12時4分

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日本は先日、これまでに日本がアジアの国に対して行ってきた貢献を強調した約2分間の動画を作成し公開した。韓国で反発の声が上がっているが、長沙明照日本語専修学院の黄海萍さんは日本の貢献について作文の中でつづっている。

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日本は先日、これまでに日本がアジアの国に対して行ってきた貢献を強調した約2分間の動画を作成し、在米日本大使館のウェブサイトで公開した。この動画に対して、韓国からは反発の声が聞かれている。では、実際に日本のアジアの国に対する貢献は、どのように受け止められているのだろうか。長沙明照日本語専修学院の黄海萍さんは、コンクールに応募した作文の中で、次のようにつづっている。

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私は広西チワン族自治区の山あいの寒村に生まれた。改革開放初期だった当時、故郷の村は貧しく、私も子供の頃から、貧困の辛酸をなめた。放課後は飛んで帰って、棚田や段々畑に腰を屈めて農耕に従事した。家計を助けるため、時に山へ入って狩猟もした。私の祖父は中医で、両親も教師だったことがあり、教育に理解があったから、かろうじて高校へは行かせてもらえた。谷底の村に高校は無かったから、町の学校である。

高校では優等を通した。優秀学生として共産党員に推薦されたが、貧乏で入党費が払えないと思ったのか、先生方がお金を出し合って入党費をまかなってくれた。僻地とはいえ「インテリ」の我が家。娘を大学へやりたい気持ちは山々だったが、先立つものが無かった。切羽詰まった母はわずかなつてを頼って山を下り、広東省東莞市の陶器工芸の工場を訪ねた。小さいとはいえ、日系企業である。日本企業が教育に理解があると聞いていたからだ。社長に面会を求め、恥を忍んで懇願した。

「私たち夫婦を雇って下さい。収入が無いと娘を進学させられません。学費分さえいただければ他の待遇には一切望みを申しません。どうか娘だけは学校へ送らせてください」。地に伏さんばかりにせまる母に、社長はさぞ驚かれたろうが、快諾して下さった。こうして私は高校からただ一人、大学進学を果たせた。社長は折に触れて便宜を図ってくださった。私は国立大学本科へ進学できた。日本語科である。卒業したら社長の会社でなくとも、せめて日系企業に就職して恩義に報いたいという思いもあった。

大学生活は充実していた。私はチワン語が母語なので漢語(中国語)と日本語の二つを学ばねばならなかった。1年生の時は最下位だったが、翌年、クラスでトップになれた。成績優秀で大学から奨学金もいただき、学内の日本語スピーチ大会で優勝もした。大学構内で暮らしていても、中国の研究、教育に対する日本の政府や企業、個人の貢献は目に着いた。校舎は日本政府の援助で建てられたと、プレートに刻まれていた。JICA派遣の教官もいたし、日本企業の奨学金をもらう人もいた。日本企業や日本人に頼むと教材を寄贈してくれた。図書館にも日本語の書籍は少なかったが、何人もの日本人が個人で日本語科閲覧室に寄贈してくれた。こうした貢献で、私は夏目漱石全集なども読むことができた。今は短大で日本語を教えているが、短大の図書館の日本語文献は全て「中国へ本を贈る会」からの寄贈だ。

今回のコンクールに、私自身社会人として応募しつつ、学生にも執筆指導している。だが、学生はなかなか書けない。日本の貢献を知らないからだ。思えば中国側も、日本側も、あまり知らせてこなかった。陰徳を積むだけでは足りない。天は知っても、人民は知らない。これからは双方とも広く知らせる努力が必要であろう。恩のある社長の会社は2008年に倒産した。私は恩に報いる機会を失ったが、日中友好、日本語教育に邁進することで日本の恩に報いる決心である。(編集/北田

※本文は、第五回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集「中国への日本人の貢献」(段躍中編、日本僑報社、2009年)より、黄海萍さん(長沙明照日本語専修学院)の作品「日本の思いやりに包まれて――一学生の体験から」を編集したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。

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