優雅な藤の花に隠された日中の縁

人民網日本語版    2016年4月28日(木) 17時46分

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ここ数年、上海は春の花の時期を迎えると嘉定紫藤園の藤の花と顧村公園の桜の写真が微博(ウェイボー)や微信(WeChat)のモーメンツに次々とアップされ、毎年花見の時期には観光客が殺到する。

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ここ数年、上海は春の花の時期を迎えると嘉定紫藤園の藤の花と顧村公園の桜の写真が微博(ウェイボー)や微信(WeChat)のモーメンツに次々とアップされ、毎年花見の時期には観光客が殺到する。嘉定紫藤園は上海の花見スポットとして、人々に広く知られているが、ほとんどの人がこの優雅な藤の花には中日の深い縁が隠されていることを知らないだろう。東方網が伝えた。

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4月20日午前、嘉定紫藤園の藤棚の下には人々があふれ、静かに鑑賞したり、待ちかねたようにカメラを取り出し目の前に広がる絶景をカメラに収めていた。あたりにはほんのりと藤の花の香りがただよい、人々を魅了していた。その人ごみの中にただ一人やや場違いなほどきっちりとしたスーツを着こなした白髪の紳士がいた。足元はややふらついているものの、背筋はすっと伸びたその紳士はまるで自分の子供を見るようなまなざしで藤の花をじっと眺めていた。彼の名は藤本道生さん、30年もの間、日中友好事業に力を注ぎ続けている人物で、この紫藤園こそが彼の努力の結晶だ。

▼上海で商いをしていた先輩の影響で生まれた嘉定との縁

藤本さんは岡山県出身の1932年生まれ、24年間連続で岡山県の和気町町長を務めた経験がある。彼は日中友好事業に身を投じたきっかけをこう語った。「私の故郷は非常に偉大な歴史的人物が誕生した土地でもある。その人物の名は和気清麻呂と言い、奈良時代末期から平安時代初期に活躍した著名な政治家だ。当時、遣唐使として中国に先進文化を学びに行った最澄と空海という二人の和尚を支援し、日本の発展に大きく貢献した。平成の世となり、先祖が行った国際交流について学ぶ必要があると感じ、中国との交流を決めた」。当時の和気町は長期的に交流する中国の都市選びをしていた。日本の日中友好協会と中国の人民対外友好協会に連絡し、推薦を受け、当時和気町町長を務めていた藤本さんが嘉定や桂林、西安、北京などの候補地を訪問し、最終的に純朴な気風で交通も便利な嘉定を友好交流都市として選んだ。

どうして上海の嘉定を交流相手として選んだのかという問いについては「私の村には父とほぼ同い年の忘年の友がいた。彼は戦前上海で商いをしており、日本に帰国した後もずっと上海の暮らしを懐かしがっていた。一緒に酒を飲むと、いつも上海での楽しかった日々やその頃の友人たちのことを語ってくれた。彼の影響で、私も上海にはずっと親近感のような感情を抱いており、それが最終的に嘉定を選んだ主な原因だと思う」と語った。

▼上海の藤の花がワシントンの桜のように有名な友好の証となって欲しい

1987年11月、藤本さんは初めて上海の嘉定を訪れ、当時の李宝林県長や嘉定の人々から熱烈な歓迎を受け、藤本さんの決心は一層固まった。1989年末、藤本さんは再度中国を訪れ、嘉定や上海を訪問中に見聞きしたことを日本に持ち帰り、日中関係の健全な発展を推進していった。その後毎年、藤本さんは自らツアーを率いて嘉定を来訪し、嘉定側もしばしばツアーを組んで、和気町を訪問して交流した。交流が広がっていくにつれて、1992年10月15日には友好交流関係協議書に調印し、正式な友好関係を結んだ。

そして友好関係成立五周年を記念して、1997年3月19日に藤本さんは120株余りの藤の苗を嘉定の南側にある古城河畔に植え、1万平方メートルあまりの紫藤公園がここに生まれた。公園は現在、毎日数多くの観光客が訪れる人気の観光スポットに成長している。ではなぜ藤の花を記念に植えたのだろうか?「100年ほど前、日本の政治家が3000株の桜の苗をワシントンに持って行き、ポトマック川河畔沿いに植え、現在そこは世界でも有名な桜の名所になっている。中国に来て、上海の嘉定と友好交流を展開した当初から、ずっと我々の友好の証となるようなものは無いかと考えてきた。将来もしこの藤の花が日中友好の証となったなら、どれほど素晴らしいことだろう。そこからこの地に藤の花を植える考えが生まれた」と藤本さんはその理由を語った。

藤本さんはほぼ毎年嘉定を訪れては、毎回藤の花の剪定をしている。藤本さんは「藤の花は桜と異なる。桜は特に手入れをしなくても毎年美しい花を咲かせることができるが、藤の花は長い時間をかけて管理する必要がある」と語った。今年の初め、藤本さんは嘉定で藤の花の剪定をする際、藤の花の接ぎ木や剪定の方法と要点を口述し、嘉定区外事弁公室がそれを翻訳してまとめた。これを用いて今回藤本さんは区の園林緑化管理所職員を対象に講座を開いた。藤本さんはその講座の席上で「紫藤園は私の子供のような存在であり、毎年でも見に来たい。しかし私もすでに84歳となり、今後、体調がどうなるかはわからない。できる限り私の知識と技術を嘉定の藤の花を管理するスタッフに伝え、我々の友好の証である藤の花をずっと咲かせてほしい」とその思いを語った。

▼日中の未来を託す

今年はちょうど上海市人民対外友好協会の創立60周年ということもあり、藤本さんはこの古き友人に対し次のように語った。「私が初めて上海を訪れた当時は車はほとんど走っておらず、道路は歩行者と自転車をこぐ人ばかりだった。そんな時代、外事弁公室と友好協会などの機関が私に車や宿泊施設などたくさんの支援をしてくれた。今の上海は車の往来も盛んで、この30年間の上海の発展には驚きを禁じ得ない。中国と日本は言葉は異なるが、漢字を書けば互いに理解できる。同じ漢字圏で共通した文化をもつ両国が手を取り合い、国民の幸福のため、両国関係を友好的に発展させていく努力をするとともに、今後もさらに友好的な交流を続けてほしい」。

また藤本さんは「30年は白駒の隙を過ぐるが如くあっという間に過ぎていったが、嘉定と交流する時の気持ちは今も変わらず30年前と同じままだ」と語った。(提供/人民網日本語版・編集TG)

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