ダンサーの夢をあきらめ学問の道へ、日本で研究する中国人教授―中国メディア

人民網日本語版    2016年11月1日(火) 5時40分

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京都の同志社大学の銭鴎教授の研究室は、机が一つ置かれているほかは全て本棚で埋め尽くされている。本棚には本がぎっしり並び、なかでも一番目を引くのは、きっちりと並べられた20巻に及ぶ「王国維全集」。

京都の同志社大学の銭鴎教授の研究室は、机が一つ置かれているほかは全て本棚で埋め尽くされている。本棚には本がぎっしり並び、なかでも一番目を引くのは、きっちりと並べられた20巻に及ぶ「王国維全集」。これは銭教授が主に研究しているテーマであり、銭教授は王国維研究において有名な学者だ。幼い頃の銭教授は武術が好きで、後にダンスが好きになり、ダンサーになることが最大の夢だった。しかし、身体的な原因から泣く泣くダンサーへの道をあきらめ、学問の道を目指すことにしたという。(記者:楊野 重慶晨報掲載)

■ダンサー目指すも怪我で断念

銭教授は小学生時代、当時の同世代の女の子とは異なり、武術をこよなく愛していた。小学三年生で重慶市のアマチュア体育学校に編入し、器械体操を学んだ。4年間体操を学んだ後、ダンスに興味を持ち始め、ダンサーとして活躍することに強い憧れを抱き始めたという。

13歳の年、新疆ウイグル自治区ウルムチ市の戦神歌舞団が重慶を訪れ、団員の募集を行った。銭教授は幸運にも多くの応募者の中からその高い実力を買われ、新団員に選ばれた。このことについて銭教授は、「当時、戦神歌舞団は重慶全体で募集していた女の子はたった一人。私はそれに選ばれたの」と誇らしげに語った。こうして銭教授はウルムチへ渡った。

ダンス三昧の日々だったが、銭教授は文化知識を身に付ける学習も怠らず、空いている時間は本を読みふけっていた。1980年、銭教授はダンスの練習中に腰を負傷してしまう。それまでダンス命と頑張ってきた銭教授とってそれはまさに青天の霹靂とも言うべき出来事で、この事実を受け止めるのにかなり長い間、茫然自失の状態に陥ってしまったのだという。

■日本に留学し、王国維の研究に携わる

1982年、銭教授は重慶に戻り、重慶大学で行政関係の仕事に就いた。ダンサーへの道が断たれた後、銭教授は学問の道を目指したいという気持ちが芽生え、仕事の傍ら、四川広播電視大学で講義を受けた。次第に落ち着きを取り戻した銭教授は学問を目指すのも素晴らしいと思うようになったという。

指導教員の推薦を受け、いくつかの紆余曲折を経て、銭教授は東北大学大学院に進学した。1988年3月、銭教授は日本へ渡った。東北大学に1年間在学した後、京都大学に進学した。ここでは6年間在学し、博士号を取得した。その後、銭教授は同志社大学で教職に就き、中日学術史や比較思想史研究に携わっている。

銭教授は、「京都大学に在学したばかりの頃に王国維の研究を始めた。多くの高齢者や学者を取材し、大量の資料を読んだ。また、王国維が当時日本で住んでいた確かな場所を特定するために、多方面にわたる資料をチェックした。このように、王国維の足跡を追いかけているうちに、彼の心情が分かるようになった」と語った。

1993年、銭教授は、京都の中国アジア研究専門書を扱う朋友書店の社長である土江澄男氏が、王国維が日本人の友人である鈴木虎雄宛てに書いた7通の手紙を所有していることを知り、土江氏を懸命に探し回った。そして、王国維が書いたその手紙の住所から、当時住んでいた京都の住所を割り出した。現在、その7通の手紙は京都大学文学部の博物館に所蔵されている。

■娘とは重慶方言で話し、自分のルーツを教え続ける

銭教授の娘は日本で生まれたが、銭教授は自宅では娘と重慶方言で話すように努めている。これについて、銭教授は、「どこにいても自分の母国語やルーツを忘れてはいけないと思っている。このように教えているので、私が娘と一緒に重慶に帰っても、娘は重慶に違和感を感じることがない」と語った。

2014年、重慶大学に高等研究院が設立された。銭教授は帰国するたびに、重慶に戻って同院で講義を行い、中国人学生と学術交流をしている。銭教授は将来定期的な講義を開設し、頻繁に帰国し講座を開設したいと考えており、そうして「実家にも頻繁に帰りたい」ということだ。(提供/人民網日本語版・編集YK)

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