「中学生まで母が日本人だと知らなかった」=大阪で針灸院を経営する重慶出身女性の波乱万丈人生―中国紙

人民網日本語版    2017年2月18日(土) 22時40分

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大阪府枚方市にある静かな細い道を進んでいくと、3階建てのアパートがあり、そこに「唐針灸館」との看板が上がっている。唐永茜さんにとってそこは仕事場であり自宅。それほど広くはないものの、美しい花で飾られ、清潔感にあふれていた。

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大阪府枚方市にある静かな細い道を進んでいくと、3階建てのアパートがあり、そこに「唐針灸館」との看板が上がっている。唐永茜さんにとってそこは仕事場であり自宅。それほど広くはないものの、美しい花で飾られ、清潔感にあふれていた。そこでは、細身の唐さんが日本人の高齢者2人に針灸の治療を行っていた。この2人はここに20年も通っているという。(文:楊野。 重慶晨報掲載)

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■中学生の時に母親が日本人と知る

唐さんは1959年に、重慶の銅罐驛鎮で生まれ、父親は四川大学の歴史学教授、母親は巴県人民病院の医師だ。

中学になるまで、唐さんは母親が日本人であることを知らなかった。当時、唐さんに悪影響が及ぶことがないようにと、母親はずっとそのことを隠していたのだ。その後、中国と日本の国交が正常化し、政府関係者が自宅を訪れ、母親の日本側の親戚が見つかったことを伝えに来た時に、唐さんは初めて母親が日本人で、日本にたくさんの親戚がいることを知ったという。

母親の影響で、唐さんは子供のころから中国医学に興味を持ち、看護師学校を卒業し、さらに、針灸を学んだ。また、医学著書も研究し、5年かけて中国医学を一生懸命勉強した。

■母親と共に日本へ行き針灸館創設

唐さんが働くようになると、母親は日本へ行き、唐さんも働き始めてから2年後に日本に留学して医学を引き続き学ぶようになった。

日本では、中国の中国医学関連の学歴が認められないため、唐さんは一からのスタートとなった。まず、大阪の針灸専門学校で3年間働きながら学んだ。当時を振り返り、唐さんは、「負けず嫌いで、日本に行ってからは言葉をマスターし、各科目で上位の成績を取った。だから、日本人の同級生や先生にも敬意を示してもらえた」と感慨深げに話した。唐さんはもともと針灸のしっかりした基礎があったため、先生からどのようにツボを見つければよいのか聞かれることもあったという。

卒業後、唐さんは福田総合病院や大阪の広瀬整形外科医院で働いた。医療技術が非常に高く、態度も良かったため、唐さんの患者はいつも一番多く、指名されることもたびたびあったという。その後、母親の勧めもあり、唐さんは病院を辞めて、針灸院をオープンさせた。

当時、大阪に針灸院はあまりなく、日本人は中国の針灸に高い関心を示していた。針灸院がオープンすると、宣伝などはしなかったものの、口コミで評判が広がり、唐さんは大忙しとなった。その後、唐さんは自宅にも針灸院を開き、医学を学ぶ妹にも手伝ってもらうようになった。

針灸院の経営のほか、唐さんは公益事業にも精力を注いでいる。例えば、大阪府針灸師協会の理事を12年務めるほか、西日本華僑華人婦女会の会長や西日本新華僑華人聯合会の副会長、枚方市中日友好協会の理事なども務めている。

■医師としてのモラルは技術より大切

2008年に四川大地震が発生し、唐さんは四川を訪問。被災地に100万円を寄付した。また、11年に東日本大地震が発生した時も、被災地を訪問し、50万円を寄付しただけでなく、募金活動も行った。当時、日本人は「地震が発生してすぐに、中国人が来てくれた」と驚いていたという。被災地で、唐さんは地震で妻を亡くした男性に針灸を施した。突然災難に遭い、その男性は血圧が急上昇し、薬を飲んでも下がらない状態だった。しかし、唐さんがその男性に数日にわたって針灸治療を行うと、血圧が下がり、安定したという。その男性は、「こんな細い針で治るとはとても不思議。中国の針灸は本当にすごい」と目を丸くしていたという。

現在、唐さんと妹、弟が日本に定住している。弟の唐永照さんも医学を学んでおり、博士課程修了後、奈良大学で遺伝・遺伝子の研究を行っているという。「重慶を忘れることはない。そこは私が生まれ、私を育ててくれた場所。今後も日中交流事業に一層取り組み、日中民間交流を促進したい」と唐さんは語った。(提供/人民網日本語版・編集KN)

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