<コラム>旧暦9月15日の関ケ原、今年も便りが来た「妙円寺参り」

工藤 和直    2017年9月24日(日) 14時50分

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鹿児島の友人から妙円寺の季節の候と、彼の母校の山下小学校生徒が日置市伊集院町徳重「妙円寺」までの20キロメートルを行軍始めた様子や鎧兜姿の写真が届いた。

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鹿児島の友人から妙円寺の季節の候と、彼の母校の山下小学校生徒が日置市伊集院町徳重「妙円寺」までの20キロメートルを行軍始めた「写真1」と「元気じゃっどか?おまんさーも先祖参りに帰ってきやんせ」と鎧兜姿の「写真2」が届いた。小学校時代の悪ガキ仲間、大きくなったものだ。

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関ケ原の戦いで西軍に参加した島津17代藩主「島津義弘」ほか1500余は、家康軍の大群の真中に突入し中央突破を図り、命からがら生き残った80余の兵と薩摩に戻った。名君と呼ばれる義弘(惟新)公は、関ケ原の合戦から19年後85歳の時に亡くなり、当時の妙円寺、現在の徳重神社に祀られた。その後、関ケ原の苦闘を偲び、また義弘(惟新)公の遺徳を慕い、関ケ原の戦いが旧暦9月15日にあったことを記念して10月末頃に「妙円寺参り」が薩摩藩時代から始まった。今年は10月21日に開催される。

慶長5年(1600年)9月15日、世に言う天下分け目の関ケ原の戦いが起こる。西軍10万、東軍7万が15日の朝から不破の関で激突、午後には小早川秀秋の裏切りで東軍勝利が決定した。こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、島津勢の世界の戦史上類のない、敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」が開始される。

島津義弘隊1500人が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央突撃を開始。西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱、その間に島津隊は強行突破に成功。続いて松平・井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破する。この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなってしまう。島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたという。しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面から右へ伊勢街道を目指して撤退を開始した。

松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を執拗に追撃するが、島津隊は「捨てがまり」戦法(鉄砲で馬上の大将を射たのち、槍で突進し1人でも殺す。自らを犠牲にする捨て身の戦法)を用いて戦線離脱を試みる。決死の覚悟を決め、死兵と化した島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した部隊のうち井伊直政(女城主直虎の養子)が申の中刻に狙撃負傷、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬、徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさと、指揮官が相次いで撃たれたこと、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどから深追いを避けた。

一方の島津隊は日向佐土原城主島津豊久(義弘の甥、父は義弘末弟の家久、享年31歳。写真3は豊久公の鎧)ほか阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80名前後に激減しながら辛くも撤退に成功した。盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ義弘公の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。

烏頭坂に豊久公の墓がひっそりとある(写真4)。江戸時代島津藩士が参勤交代で来る度に、西郷も大久保もここで涙を流し、明治維新につながる。単に関ケ原と言っても、近代国家明治維新につながったと考えると、ご先祖様の死もムダではなかったと思える。死中に活を得る敵中突破撤退劇は、その後薩摩武士の生き様になり、筆者も子供時代「やっせんぼ(ひ弱い男)」と言われるのを最大の恥と感じて育った。

写真の鎧兜、威勢は良いもの、ちょっとピカピカ過ぎて威厳がないように感じたので、返事のメールに添えた「おやっとうさー、おまんさーらよかにせ、よかぶっせ、どこい行っかあ。みなたまがっどー」(ご苦労さん。君達ハンサムボーイが良い格好してどこに行くの?皆がびっくりするよ…)。返って来た返事はただ「うぜらしか(やかましい)」であった。50年経った薩摩示現流仲間の同級生、山下小学校(城山の麓にあり、校区内は西郷隆盛ほか維新の立役者生誕の加治屋町が含まれる。校訓、「負けるな」「うそを言うな」「弱い者をいじめるな」を開校以来140年通している)もよか風習を残している「チェストー!!」。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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