<コラム>「上を向いて歩こう」の中村八大が通った青島の中学を訪ねる

工藤 和直    2017年10月1日(日) 15時20分

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山東省青島市青島湾を臨む小魚山から西に下ると中国海洋大学の正門に至る。正門から見える建物が旧制青島中学であった。写真は筆者提供。

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山東省青島市青島湾を臨む小魚山から西に下ると中国海洋大学の正門に至る(写真1)。正門から見える建物が旧制青島中学であった(写真2)。門柱は昔のままである。青島守備隊大谷中将の命令で、青島日本中学校が1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ・イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)にあった二階建ての建物であった。開設当初の制服は、冬服は紺色詰襟、夏服は鼠霜降詰襟であった。

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1921年(大正10年)、旧ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に建設中であった新校舎が落成し、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は1万5892坪(5万2400平米)、校舎の延坪数は1936坪(6400平米)で、当時の日本においてはまれに見る堂々とした外観と設備を有していた。校舎内に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中国各地から、ここに寄宿勉学した。グラウンドに降りる階段の両側にソメイヨシノが現在も多く植えられて、春になると名の如く桜花爛漫の世界になる。

建設後百年近く経つが、大きさと言いその正面玄関背後にある広い中庭と別棟の校舎建屋、北西に広がる運動場(昔の教練場)とそこへ下りる階段は当時の花崗岩であり、遠く真正面にドイツ総監官邸(日本軍司令官邸)が見える。これが中学校とは思われない。内地の帝国大学がこれに匹敵する。旧制青島中学は名門であり、内地の有名官公大学・高等学校・私立大学や専門学校に多くの卒業生を輩出した。在籍記録(卒業は他中学)の中に、石丸寛(九州交響楽団・東京交響楽団指揮者)や中村八大(上を向いて歩こう・こんにちは赤ちゃん等の作曲家)などの異彩児も居る。中村の父親(中村和之)は青島第一尋常小学校(武定路)の校長でもあった。

校舎内外を(写真3)に示す。中央玄関の入口に花崗岩の石段があるが、これも昔のままである。セキュリティー付き自動ドアで校舎内部に入る事が困難だったが、学院の学生とともに入り、正面階段を登り二階の踊り場に行った。正面は当時、校長室であったのかもしれない。今は、海洋大学食品科学工程学院書記室になっている。当時、左右の廊下に続く各部屋は教室であったのであろう。二階に上がる階段踊り場は、その奥が講堂につながっている。

当時の青島中学の(写真4)を見ると、グラウンドから見上げる風景は今も変わらない。日本へ引揚げて70年以上になるが、卒業生は定期的に集っているようだ。青島中学「鳳雛会」と称して、OB会を定期開催している。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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