Record China 2011年3月17日(木) 14時24分
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16日、津波に襲われた宮城県女川町で、約20人の中国人研修生を避難させた日本人の社員が、津波の犠牲となっていたことが分かった。写真は日本から避難した中国人が大連周水子国際空港に到着。
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2011年3月16日、新華網によると、津波に襲われた宮城県女川町で、約20人の中国人研修生を避難させた日本人の社員が、津波の犠牲となっていたことが分かった。
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「もしあの人たちが助けてくれなかったら、私たちは今ここにいない」。遼寧省大連市から来た研修生の衣亜男(イー・ヤーナン)さんと同僚たちは、目に涙をためながら女川町で話した。女川町の人口1万人の半数が、今なお行方不明となっている。記事によると、同町で研修を受けていた中国人研修生約100人から、犠牲者は一人も出なかった。身近に助けてくれた現地住民や同僚がいたからだという。
激しい揺れに襲われた当時、佐藤水産株式会社の20人の中国人研修生は、宿舎付近の小高い地形となっている場所に避難した。その後すぐに、専務の佐藤充さんが彼らに駆け寄ってきて、「津波が来た!」と叫びながら研修生たちをさらに高い神社へと退避させたという。その後で佐藤さんは妻子を探しに宿舎に戻ったが、宿舎は津波にのみ込まれてしまったという。再び避難してくる佐藤さんを見た人は誰もいなかった。
震災が発生した夜、大雪が降り厳寒だったが、研修生たちはどこにも行く場所がない。佐藤さんの兄で、佐藤水産の社長・佐藤仁さんは自宅が流された悲嘆にくれる間もなく山上に住む友人に助けを請い、研修生たちの宿泊場所を確保したという。研修生たちの世話係・杜華(ドゥー・ホア)さんは、「被災した翌日、私たちを見た佐藤社長が言った最初の言葉が、『杜華、20人だれも欠けていないな!』だった」と話した。
岡青株式会社の社長と部長らも、まず5人の中国人研修生を安全な付近の山に避難させた。大連市出身の曹晶(ツァオ・ジン)さんは、「あの晩、社長は自分の子供の安否も分からないなかでまず私たちを山頂の温泉旅館に避難させてくれた」と振り返った。その後しばらくして付近で最も大きな避難所に移されたが、そこには数十人の中国人が集まっており、毎日2〜3食が提供されていたという。曹さんは、一刻を争う非常時に、現地の人たちがすべての命を等しく尊重してくれたことを、助かった研修生たちは生涯忘れない、と語った。(翻訳・編集/津野尾)
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