Record China 2011年10月12日(水) 8時7分
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7日、中国の時事評論家、李奉先氏が「金日成父子とトウ小平の関係悪化のてん末」と題した記事を中国のブログサイトに掲載した。写真は深セン市内に掲げられたトウ小平の巨大看板。
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2011年10月7日、中国の時事評論家、李奉先(リー・フォンシエン)氏が「金日成父子とトウ小平の関係悪化のてん末」と題した記事を中国のブログサイト・鳳凰博報に掲載した。以下はその内容。
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トウ小平は生涯に4度、北朝鮮を訪れている。1度目は1962年。中国共産党中央書記処総書記として代表団を引き連れ、朝鮮労働党第3次全国代表大会に出席、熱烈な歓待を受けた。金日成(キム・イルソン)も単独でトウと会談、2人の間に個人的な友情も芽生えた。
2度目の平壌行きは非公開だった。1964年にフルシチョフが失脚、ソ連共産党の方向性をどう受け止めるかという問題が各国共産党に突き付けられ、トウとキムは意見交換を行った。この時、意見の差異はあったものの関係をこじらすほどには至らなかった。
3度目はトウが表舞台に復帰した1978年。キムはトウの来訪をかなり重視し、滞在中ずっとそばを離れなかった。4度目は1982年。北朝鮮との「伝統的な友誼」に対する重視の姿勢を示すため、トウと胡耀邦が訪朝。トウはこの時78歳でこれが最後の外国訪問となった。
ところが、その後に中国が韓国との国交正常化を決めてから、両国関係はギクシャクするように。だが、中韓の国交正常化を目前に控えた1992年、ソ連と東欧が大きく変化。これを受け、キムは最後の訪中を決意した。
この時のトウは隠居の身で、外国の要人とは一切会わなかったが、関係修復のため例外としてキムと会談。だが、表面上は上手くいったかに見えたものの、実際はさらに悪化していた。トウは改革開放や台湾問題解決のため、アジアで唯一台湾と国交のあった韓国との国交正常化を決めたのだが、キムにしてみればこれは壊滅的な屈辱だったのだ。
キムは強い口調でトウに詰め寄った。「お前たちが我々の共同の敵だった韓国と国交を結ぶなら、我々は中国の敵である台湾と国交を結ぶ。それでも良いのか?」と。これに対し、トウは強硬な態度で「だったら、中朝は国交を断絶する!」と言い放った。
それでも中韓の国交正常化に向けたスケジュールは進められていった。これを北朝鮮側にどう伝えるか。結局、当時の銭其シン外相が総書記のメッセージを携え、訪朝することに。だが、この時のキムは冷ややかで怒りに満ちていた。
一方の韓国ではトウに対する絶賛の嵐が吹き荒れた。北朝鮮はこれを屈辱的な思いで見ていた。跡を継いだ金正日は「我々が戦争を起こせば、周辺の大国はおしまいだ」とまで。この「周辺の大国」とは米国なのか、それとも中国なのか。もはや聞くまでもないだろう。
そして、1993年の五輪開催地決定の瞬間、中国は北朝鮮から大きな報復を受けたことに気付く。当時、誰もが中国の名が呼ばれると思っていた。これを阻んだのが、北朝鮮だ。中国を裏切ってライバルのシドニーに投票したのだ。
それでもいまだに金正日が訪中する度、我々は盛大な歓迎式典を開き、食糧を欲しがれば食糧、金を欲しがれば金を渡す。反対に中国の要人が訪朝した時も破格の歓待を受け、「中朝の友誼万歳」の掛け声が高らかに大空に響き渡る。その様子はまるで両国がいまだに運命共同体であるかのようだ。(翻訳・編集/NN)
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