工藤 和直 2018年9月22日(土) 22時20分
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国綿第二工廠は、1916年に内外綿株式会社青島支店として、青島に初めて進出した日系企業であった。写真は筆者提供。
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国綿第一工廠は1919年9月に建設された大日本紡績株式会社青島大康紗廠を源流とし、1921年に四方河口(山東省青島市海岸路2号)にて1000人で開業した。1923年に工場増築を進め、5万6876坪の敷地面積に16万人の従業員がいたようだ(写真1)。現在は海岸綿城小区の集合高層アパートとなっているが、入口にあった事務所棟は現在青島聨城海岸置業有限公司事務棟になって現存している。近くには四方駅があり、ここから多くの製品が搬送された。東京オリンピック時に名を馳せた「ニチボー貝塚」女子バレーボール部の258連勝の偉業は記録に残っている。
【その他の写真】
国綿第二工廠は、1916年に内外綿株式会社青島支店として、青島に初めて進出した日系企業であった。63万2406平米の敷地面積に3万2000人が働いていた。内外綿は1901年にまず上海に進出した。現在は、青島聨創実業集団有限公司となっている。現在、海岸路側に中央青島党史記念館がある。その奥に内外綿紗廠旧跡の石碑(写真2)や、1952年1月の刻印の老式消防水塔や奉納と書かれた手洗石漕が残っていることから、工場内に稲荷神社などがあったと予想される。周囲には、当時のカマボコ型の工場や煉瓦(れんが)造りの事務所棟が散在する。まさに、ここに日系企業があったことが感じられる場所である。現在第二工廠跡は四方庄園(海岸路22号)となって、高層アパートが逐次建設中である。次に来る時は当時の工場は無くなっているかもしれない。北側には、青島供電有限公司の青島市最大の火力発電所がある(写真3)。
中国における反帝国主義運動の先駆けの一つが、1925年5月30日に発生した五卅(Wu Sa)事件とその後の五三〇運動である。この事件のきっかけは、1925年5月25日上海内外綿工場で日本人監督が中国人労働者を射殺したことから上海地域がゼネストに突入、反帝国主義運動が全国に広がったことにある。
国綿第三工廠(四方区興隆一路149号)は1921年10月創建。1923年4月から生産開始した日清紡績青島興隆工場が源流。敷地面積19万1891平米で日本人28名・中国人7103名と記録されている。第三工廠は2002年に操業を停止。現在は興隆家園という集合高層アパートになっている。この入口ゲートは当時の工場門跡でもある。中に入ると正面に大きなヒマラヤスギの大木があった。当時からあったのかもしれない(写真4)。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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