雪田 2018年10月23日(火) 23時20分
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中国大陸の人びとは昔から海を渡って日本列島にやってきていますが、特に人数の多い時期は伝説も含めて以下です。写真は神戸の中華街。
2018年の4月ごろ、毎年名古屋の「春節祭」で活躍していた「ヤンガ舞」の関係者らは、正式に「華僑華人秧歌舞広場ダンス協会」を設立しました。設立の式典には中国の領事館の領事や理事なども立ち会いました。彼らはその後も「ど真ん中祭り」、錦秋祭などに出て、中国の踊りを踊りました。それについての感想を書き、このグループを宣伝したいのです。
中国大陸の人びとは昔から海を渡って日本列島にやってきていますが、特に人数の多い時期は伝説も含めて以下です。
1、苗族
苗族は大昔、中国大陸の東の方の黄河と長江の下流地域に住み、稲作を行っていました。苗族の祖は「蚩尤(しゆう)」との説もあり、その頃の漢民族の祖先は中国の西の方でチベット族と羌族(チアン)と3つに分かれ、黄河の最大支流の渭水流域に移り住み、粟(あわ)などを作っていました。漢民族では「黄帝」を祖先と見る人も少なくありません。
苗族の祖「蚩尤」は漢民族の祖「黄帝」との戦いで敗れ、苗族の人は南や東に散らばり、多くの人が雲南省、貴州省の山奥にたどり着いて今に至ると言われています。一方で、「蚩尤」の敗戦後に一部の苗族の人は最終的に日本列島にたどり着き、稲作の技術を日本に持ち込んだとも言われています。中国の改革開放後の1980年代から、貴州の山奥の苗族の村にルーツを探しに行く日本人がかなりいました。いろいろと似ているところがあります。
2、秦代の方士
「徐福伝説」は中国で誰でも知っている話です。秦代の方士・徐福が秦の始皇帝の命を受け、東方の島に不老不死の薬を探しに出たという話です。徐福は童男と童女をそれぞれ500人連れ、現在の山東省から最終的に日本にたどり着き、秦に戻ることなく文字と鉄器などを日本に伝えたと言われています。
日本の「秦」氏は徐福が由来との説もあり、「秦」氏由来の「羽田」氏、「波多野」氏、薩摩の「島津」氏などとも縁があると言われています。元首相の羽田孜氏はかつて、羽田家の先祖は秦から渡ってきた人と発言し、中国に何度も訪問し日本徐福会の名誉会長も務めました。
3、三国時代の呉の子孫
三国時代の末期に、「呉」は北の政権「魏」によって滅ぼされました。その際に逃亡した呉の子孫の一部が海を渡って日本にたどり着いたとされています。本州の西部に足を踏み入れたところを「呉」といい、自分たちのことを「呉人」と呼んでいました。現在の広島県の呉市は、呉の子孫が繁栄したところともいわれており、呉の文化や衣服は日本に根付き、呉の景色は庭園になって日本に残ったと言われています。
4、元宋の生き残り
南宋はモンゴル人の鉄騎精兵によって滅び、中国大陸の全域が元王朝の天下となりました。元は日本に帰順するよう命じましたが、当時の鎌倉幕府はそれに従いませんでした。元の日本侵攻は「元寇」と呼ばれており、元の2度にわたる進行はいずれも失敗に終わっています。
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