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<コラム>桜の北限、瀋陽市に戦後もあった「奉天神社」を訪ねて

工藤 和直    2019年2月19日(火) 23時40分

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桜の北限、瀋陽市に戦後もあった「奉天神社」を訪ねて。

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春秋戦国時代、瀋陽の地は「燕国」であり、5世紀になると高句麗の治世が200年ほど続いた。明末1616年、後金を建国したヌルハチは明遠征軍を撃破して、瀋陽・遼陽を陥落させ、早々と新王宮(現在の瀋陽古宮)を建設した。1634年、二代目皇帝ホンタイジは瀋陽を盛京と改名した。1644年フリン(順治帝)は国都を北京とし、盛京は副都になった。1657年、「奉天承運」から命名して「奉天」と呼ばれ、1923年中華民国は正式に奉天市とした。1929年張学良が一時的に瀋陽に改名、1931年以降の日本統治下では、再び奉天と呼ばれた。

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奉天(現在の瀋陽市)は歴史の古い城郭都市である。しかも偽満州国は新たな都市計画を行い、従来の城郭都市の西側に、奉天駅から放射状・格子状に伸びる道路網を造った。いわば新旧の都市が同居している構造である。古い城壁のある街並みは、周囲7kmの内城と周囲16lkmの外城の二重構造である。内城はほぼ正方形に近いが、外城は円形と言うかハート型とも言える城壁を有する。現在は、残念ながら城壁跡を確認することは困難であるが、かつての地図からその規模は極めて大きいことが言える。

この内城の中に宮城(瀋陽故宮)があり、ヌルハチの皇居であった。その宮城の城壁跡が東西南北で言えば、朝陽街・正陽街・瀋陽路・中街である。実は、奉天は三重の城壁からなる構造を持つ城郭都市であった(同じ構造は東京開封城や鄭州城に見られる)。

外城と内城は8つの城門からなる。20世紀になり西側に作られた新都市と旧城郭都市は、小西辺門付近で合体する。小西辺門は、現在瀋陽市政府の建屋(戦前は奉天公園)の東にあり、奉天駅から伸びる路面電車は、市府大路(十間房)を過ぎて小西辺門(市府広場)に至る。そこから更に東に小西門まで路面電車が通っていた。奉天公園の南は各国の領事館が密集している。フランス・イギリス・日本・ロシアは二偉路に並んでいる。

奉天の新街路計画は、奉天駅(現在の瀋陽駅)を背にして、幅36mの千代田通り(瀋陽大道)を中心に、左45度に浪速通り(昭徳大街)と右45度に平安通り(現在は民主路)とし、格子状に街を作った。新京(長春市)と同じく、都市道路衛生環境計画の点で、架空の電線を地下ケーブル埋設とし、当時の東京より数段すぐれた、他の西洋列国都市にもない非常にすばらしい都市になるべく計画された。ちなみに西の要になる奉天駅は1910年10月1日から営業開始して108年になるが、東京駅より4年も早く作られた。改札口に立つと分かるが、まさに古い駅舎であることが実感できる(写真1)。

奉天神社は、現在の中山広場の中国工商銀行(戦前は横浜正金銀行)右の北四馬路(旧北四条通)から奉天警察署跡から1ブロック入った右にあった。中山路に向かう同澤北街は昔の参道にあたる。1985年頃の(写真2)を見ると、警察署の向こうの森に拝殿部がちらりと見え、戦後も現存していた。建築様式は、鉄筋コンクリート造りの躯体外側に木造の柱を置き、外部からは木造造りの様に見える構造である(写真3)。現在、奉天神社跡に本殿も鳥居もなく、松林のような森になっていた(写真4)。桜並木で有名な神社であったとは想像もつかない。ただ入口の八一劇場階段前に狛犬のような石造物があったが、これは奉天神社参道にあった二つの狛犬ではないだろうか(写真5)。福建省厦門神社跡にも同じく狛犬が虚しく残っていた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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