<コラム>青島医学院はかつて“青島日本人第三国民小学校”跡で、当時の“講堂”だけが現存していた

工藤 和直    2019年9月3日(火) 23時10分

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大正3年(1914年)以降、青島神社(現在の貯水山児童公園)の麓に多くの日本人が住んだ。その東の台東鎮地区へ工業地帯が拡張するに連れて生徒数が増大、従来からある第一小学・第二小学だけでは収容しきれず、新たな学校の造営が新たな課題となった。

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大正3年(1914年)以降、青島神社(現在の貯水山児童公園)の麓に多くの日本人が住んだ。その東の台東鎮地区へ工業地帯が拡張するに連れて生徒数が増大、従来からある第一小学・第二小学だけでは収容しきれず、新たな学校の造営が新たな課題となった。青島第三国民学校(通称三小もしくは第三小)は、昭和16年(1941年)に若鶴バラック(ドイツの旧モルトケバラック:簡易兵舎)の位置に新設された在青島日本人児童向けの小学校だった。

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青島第三国民学校はちょうど尋常小学校から国民学校に移る昭和16年に新設された小学校であった。(地図1)で見ると青島神社の東裏手で青島ビール工場の北西にあたる。校舎はその後、青島医学院(現:青島大学医学院)に継承され、当時の講堂だけが現在も残っている。

登州路にある青島ビール工場に多くの見学者が訪れている。その登州路を西に行くと、右手に多くの商店街とその奥に多くのアパート住宅が見える。当時はここも青島ビール(大日本麦酒)の工場であった。しばらく歩くと道が北に曲がり盲学校があり、その北に青島大学医学院の門がある(登州路38号)。

(写真1右)は1941年(昭和16年)当時の第三小の全景である。右下に第二公園(現在は体育場)が見え、左右に松山路が走る。当時の門は現在より北側にあったようだ。そこから入ると、左手にテニスコートや校庭が見えた。その校庭の奥に学生食堂と寮があるが、その間に褐色の古い建屋が垣間見え、それが当時から残る第三国民学校“講堂跡”である。現在は使用頻度がほとんどなく、講堂以外で使用されている。正面の東西に長い白い校舎は建て替えられ、教学楼として勉学の場となっている(写真2)。(写真1左)は第一尋常小学校にあった当時日本小学校では最大になる大運動場である。

1914年の台東地区地図を見ると、この場所は若鶴バラック(青島守備軍簡易兵舎)となっている。当時はバラック状の兵舎が並び、1914年青島要塞陥落後はドイツ軍兵士捕虜収容所となった(写真3)。その跡が小学校になった。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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