中国に対して友好的な日本人はどれほどの割合必要か?―中国有識者

Record China    2013年7月19日(金) 12時10分

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18日、日本右翼保守派の中国に対するあらゆる非友好的言動は、日本の国家と民族の利益にとって一体どれほどメリットがあるのか?私はこの問題をずっと追究している。

2013年7月18日、日本右翼保守派の中国に対するあらゆる非友好的言動は、日本の国家と民族の利益にとって一体どれほどメリットがあるのか?私はこの問題をずっと追究している。知り合った中国人や日本人に聞くと「メリットはない!」とほぼ一様に声を揃える。(文:周冬霖(ジョウ・ドンリン)中国中日関係史学会理事、中日桜花文化交流センター長)

メリットがないのに、なぜ彼らは好き好んで飽きずにそうするのだろうか?

最近、日本の対中友好人士、八島継男氏と会う機会があり、安倍政権発足以来の非友好的な対中姿勢について憂慮に満ちて語り、過去10数年間の日本社会の中国を刺激する度重なる言動を振り返ったのだが、意外にも八島氏の言葉に私は困難の中に希望を見いだした感を強くした。

八島氏は「日本には1億3000万人近くの人がいる。その10%や20%が中国に対して友好的なら、それだけで十分だ。これほど多くの人が全員中国に対して友好的になるのは不可能だし、その必要もない。現在日本では対中友好を主張する日本人は20%を超えているはずだと私個人は考えている」と語ったのだ。

このように視点を変えて日中関係を見ると、目の前がぱっと明るく開けたような感がある。

八島氏は1934年2月に瀋陽で生まれた。1946年、日本の敗戦後の混乱の中で父は行方不明となり、母は12歳の八島氏を残して自殺。八島氏は独りで葫芦島から引揚船に乗って日本に戻った。大学進学時に「中国文学」科を選択したのは、こうした特殊なゆかりのためかも知れない。1959年に就職後、ずっと日本の海外協力事業団(現在の国際協力機構の前身)に勤務し、対外経済開発援助の技術協力事業に携わった。1982年にJICA中国事務所の初代所長および設立者として、対中技術協力事業に携わり始め、1992年に定年退職するまでの10年間、中日友好病院、中日青年交流センター、中日友好環境保護センターなど数十億元(数百億円)規模の対中建設援助事業を担当し、日本青年協力隊のODA事業複数を中国に導入した。定年退職後もJICAに再び戻り、中日友好環境保護センター専門家チーム長として、1995年の退任まで中国で勤務した。13年間の中国での勤務が仕事上の理由によるものだったとするなら、退任から現在までの18年間は、純粋に自身の真の気持ちに基づき、日中両国で勤務していた期間に蓄積した人脈を活用して、日中友好交流・協力に主体的に尽力してきた。この18年間に八島氏は中華環境保護基金、中国生物多様性保護基金、北京市環境保護基金、および重慶市、寧夏回族自治区、四川省、湖北省、陝西省の科学技術機関や環境保護機関と協力して、日本国際善隣協会国際交流委員会委員長として、日本の小渕基金、JICA中日基層友好協力型事業、地球環境基金から支援を取りつけ、中国各地で数十件の科学技術交流、環境保護関連の事業(累計2000万人民元以上、日本円換算では3億2688万円以上)を実施し、中国政府と事業協力組織から好評を得た。八島氏は中国政府「友誼賞」、中国国際協力賞など外国人に対する様々な奨励賞を相次いで受賞した。

80歳近くの八島氏は公人として日中政府間の協力事業に長年携わり、その後も民間人として草の根交流に携わり、日中友好協力・交流に際立った貢献をした日本人であり、生涯のうち30数年間を日中で奔走し、日中交流事業に心を込めて携わってきた。日中交流事業に身をもって参画した方であり、前述の結論を導き出すだけの資格がある。したがって、日中関係に対する氏の「新思考」にも一理ある。

日本のいわゆる「右翼」勢力は政治思想では「皇国史観」「民族優秀論」を鼓吹し、軍国主義とファシズムの復活を鼓吹し、専制と暴虐、隣国侵略の時代に戻って弱肉強食の強権主義を遂行することを望み、侵略と征服によって日本の国際的地位を確立することを主張している。また、現行の平和憲法に反対し、その改正を要求している。対中関係では侵略戦争を否認し、侵略の歴史を美化し、戦争を否認し、「自由主義史観」「大東亜戦争史観」を鼓吹し、「自虐的な東京裁判史観」からの脱却を要求し、南京大虐殺を否認し、日中関係の正常な発展を損なう騒動を度々引き起こしている。

それでは、こうしたいわゆる日本の「右翼」勢力はどれほどいるのだろうか?

日中両国の調査研究領域で近年導き出されたおおよその結論によると、現在日本の右翼団体は約900団体あり、約10万人が所属している。「暴力団」から転化した「行動右翼」勢力も含めるとするなら、日本の国家公安委員会の指定暴力団は24団体ある。このほか、日本には右翼思想を持つが右翼組織には参加しない、いわゆる「スーツを着た右翼」もおり、これも含めるなら日本の「右翼の人」は計約350万人となる。

日本の総人口に占める割合から見れば、「右翼」の数は憂慮に値しない。だが彼らはよく過激な行動に出る。例えば排外的なデモを行い、大音量の拡声器の街宣車でえらそうに街中を走り、領土紛争では強硬姿勢に立ち、メディアを操って民衆を惑わす。その行動は「人目を引き」、たちの悪い影響をもたらす。正義の勢力が彼らに制限を加えなければ、軽視できない結末をもたらしうる。

「日本人の精神年齢は12歳に過ぎない」―これは第2次大戦終結後に日本に駐留した占領軍のマッカーサー司令官が日本を評した名言だ。

1951年4月16日未明、日本を6年近く統治したマッカーサーは厚木米軍飛行場へ車で向かっていた。朝鮮の戦場での指揮が原因でトルーマン大統領に解任され、帰国することになったのだ。おびただしい数の日本人が自発的に沿道に立ってマッカーサーを見送り、激しく泣いて涙を流す人さえ少なくなかった。日本の各大手新聞は次々に社説を掲載し、マッカーサーへの謝意を表した。日本政府はマッカーサーへの「終身国賓待遇の贈呈」と「マッカーサー記念館の建設」を検討するとも表明した。日本人は「私たちの畏敬と従順は大元帥に素晴らしい印象を残したはずだ」と誰もが信じていた。

だがその22日後にマッカーサー大元帥が米議会で行った発言は、日本人に頭から冷水を浴びせるものだった。「日本人の精神年齢は12歳に過ぎない」と言ったのだ。このニュースが伝わるや、日本人はびんたを食らったように直ちに顔色を変えた。「国賓」「記念館」計画は先送りになり、有名企業数社が「私たちは12歳ではありません!」との共同広告を新聞に出した。

「12歳」との評価について、マッカーサーがその後説明することはなかったが、日本人は各種各様の解釈を自らした。マッカーサーには「日本の戦争の罪を軽減する」意図があったのだと、あまりにも無邪気に考える人さえいた。12歳の少年の「無鉄砲な行為」は、成人の犯罪ほど悪質ではないというのだ。それから60年余りが過ぎた。12歳の少年日本はもう成長したのだろうか?

近い例で言うと、最近10年間の日中関係を振り返ってみれば、「日本人は政治的に依然未成熟だ」との認識で誰もが一致するだろう。中国や他の隣国に対する日本右翼勢力の近年の非友好的言動は、日本の国家と民族の利益にとって一体どれほどメリットがあるのか?ない?それなら、なぜまた好き好んで飽きずにそうするのか?彼ら12歳の少年が一日も早く大人に成長することを真に期待する。(提供/人民網日本語版・翻訳/NA・編集/武藤)

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