木口 政樹 2020年4月21日(火) 19時40分
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韓国の総選挙で、保守の右往左往する隙をついてリベラルの与党が180議席という韓国選挙史上最大の勝利を収めた。そんな中で、保守からの当選者で注目すべき二人がいる。どちらも脱北者だ。写真は北朝鮮。
前回、「韓国総選挙後の北の動きが気になる」と題してお送りしたが、今のところ北朝鮮の不穏な動きは感知されていないようだ。ただ、北朝鮮では一番重要な日である4月15日の「太陽節」に金正恩の姿が見えなかったことから、健康不安説が取りざたされている。コロナで倒れたとか心臓手術を再度受けているなどの情報が飛び交っている状況だ。わからない。
北の4月15日は「太陽節」であるが、南の4月15日は今年は総選挙があった。今日はその総選挙の話題でお届けしたい。4月15日に実施された韓国の総選挙で、保守の右往左往する隙をついてリベラルの与党が180議席という韓国選挙史上最大の勝利を収めた。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)率いるリベラルは、「反日、反米」、「親中、従北」の傾向があるため、これからの日韓関係が気になってくるところだ。しかし勝利は勝利、敗北は敗北だ。素直に認めて前を向いて歩いていくしかないだろう。
そんななかで、保守からの当選者で注目すべき二人がいる。テ・ヨンホ(テ・グミンと改名している)とジ・ソンホという人だ。どちらも脱北者だ。
テ・ヨンホ氏は、イギリスの公使だった人で有名。自分が韓国で当選したら北朝鮮の人々にも大きな勇気をあたえることになるだろうとして立候補した人だ。脱北者が国会議員になったのは、筆者の知る限り今回がはじめてではないだろうか(たぶん)。
もう一人がジ・ソンホ氏。38歳。2006年に韓国に脱北して来た人だ。2018年1月にトランプの招待を受けてアメリカ議会で演説したことで有名になった。この人、今回の選挙で比例代表枠で未来統合党(保守の韓国党と同一)から当選した。
リベラルの与党が180議席というとんでもない数を獲得しているため、憲法改正以外はほぼなんでもやりたい放題ができる状況になってしまっているけれど、その中での脱北者二人の当選だ。脱北者が保守から二人も当選したことで、なんらかの起爆剤になるのかもしれない。韓国の政治を見守っていくことにしたい。
で、このジ・ソンホ氏の体験談がものすごいので、今回ちょっと長くなるけれどここに掲載したい。この体験談は、2015年のオスロ自由フォーラムで、ジ・ソンホ氏が韓国語で直接語った内容であるが、コラム筆者が日本語に翻訳した。以下がその内容。(「わたし」=「ジ・ソンホ」氏のこと。)
(ジ・ソンホ氏が写真をまず見せながら)1992年小学校の卒業写真。咸鏡北道で撮った写真だ。北朝鮮の配給体制が崩壊する前であることがわかる。(全員元気でやせ細っていない)。わたしが中学校に通っているとき、学級の友達が一人また一人といなくなっていることに気づいた。1994年以後、北朝鮮のわたしのふるさとではわたしの友達を含め多くの人が飢餓で死んでいった。わたしが住んでいた深い山奥の炭鉱で、多くの人が食い物をあさり、わたしの家の後ろの家や隣の家の人も飢餓で亡くなった。木の皮や草を食べていた人も飢餓で死んでいった。1995年4月12日、わたしの祖母も飢餓でなくなったのだが、その姿をわたしはただ見ているしかなかった。
これまでの70年間、金氏(金日成、金正日、金正恩)一族は、われわれを騙してきた。わたしの友達が死んでいくときにも北朝鮮の共産主義が世界で一番いいのだと学校の先生たちは嘘を教えていた。金正日は飢餓にもかかわらず住民たちを圧迫しつづけながらすぐにでも食糧が届くはずだと騙した。わたしはあとになってはじめて、北の食糧配給システムが崩壊していたのを知った。一番貧しい地域には食糧をわざと配給しないことも知った。
わたしのふるさとの一番奥に、第25番政治犯収容所があった。ここで政治犯たちは毎日1200トンの石炭を掘った。わたしはその石炭を盗んで売れば家族を食わせることができると考えた。わたしは母と12歳の妹と一緒に石炭を盗むために夜出ていった。収容所から発電所まで行く列車に隠れて乗りこみ、石炭を盗んだ。隠れて乗ったのは、軍人たちが監視しているからだ。見つかれば骨が砕けるほどたたかれたからだ。わたしはいまでも石炭の籠の重さを忘れない。背が120センチ、体重が20キロしかない飢餓に苦しむ少年にとって、とてつもなく大変なことだった。わたしはとても痩せていたため、かばんをさげると皮がむけて血が出た。
16歳であった1996年3月7日の早朝、わたしは走っている列車にかけ乗った。車両の番号は4000-30でこの列車には60トンの石炭が載っていた。この列車にはわたしのような「石炭どろぼう」たちがたくさんおり、目と歯以外は全部石炭の粉と汗で真っ黒だった。わたしは数日間食いものを食ってなかったためめまいがして、次の駅で降りようとしたとき気を失ってしまった。気が付くと線路の間に倒れていて左足の上を列車が通っていったあとだった。脚は切断され皮一枚でつながっている状態であり、息をつくたびに血がどっと流れた。そのときの恐ろしさと苦痛はことばでは言い表せない。脚をおさえて血を止めようとしたけど、左手も指の3本が切断していることに気が付いた。そこからも血が流れた。わたしは、助けてくれと叫びながら父、母、妹を探した。北朝鮮の冬の厳しさが傷口をさらに苦しめた。妹がわたしを見つけたのだが、襟巻きをとって傷口にかけてくれるのが精一杯だった。わたしは大勢の人に助けられて病院につれていかれた。病院でもずっと寒くてのどが渇いた。病院にあった手術の道具が今も記憶に残っている。輸血もできず麻酔もなかった。折れてつき出ている骨をのこぎりで切るのだが、切られるときの苦痛を今でも思い出す。手術用のメスが肉を切る音と気絶したことが思い出される。医者はびんたをはって「しっかりしろ」と言った。わたしが悲鳴をあげるたびに、手術部屋の外にいた母が気絶して倒れてしまった。医者は薬も出せないままわたしを家にかえし、わたしたちは抗生物質を買うお金もなかった。手術のあとの日々は死ぬよりもつらく、抗生物質も麻酔薬もないなか、毎晩苦痛のために泣いた。殺してくれとわめいては朝になってからまどろんだりもした。わたしは家族がやっとのことで持ってきてくれる食べ物を食べるときごとに罪悪感を抱いた。北朝鮮は依然として飢餓に苦しんでおり、党の幹部を除いてみんなが飢餓の状態だった。わたしの弟は市場のごみ箱から拾った麺を何本か集めてきて、洗ってわたしの口に入れてくれた。わたしは弟がもってきてくれて食べさせてくれた麺の味を忘れることができない。弟と妹は看病のため、わたしが治るまで草を食べないといけなかったから、まともに背も大きくなれなかった。わたしは死ぬまでこの「感謝と申し訳なさ」を忘れることはできない。夏になるとわたしの傷口の肉が壊死しはじめた。悪臭が出て骨の一部が皮をやぶって外に出る始末だった。
事故後240日ほど経った12月ごろになってだんだん苦痛が静まってきた。わたしは未来がないと考え、夢もなくなったと考えた。自殺も考えた。これ以上、家族に負担を与えてはだめだと考え、2000年に松葉杖をついて中国へ脱出した。乞食をして何キロかのコメをもって帰ってきた。このとき中国は、わたしの家族よりいい生活をしているとわかった。北に帰ってわたしは警察に捕まり、警察は「てめえのようなビョンシン(障害者)が中国に行って乞食をしたなんて共和国の恥だ」と言った。脚のないわたしが中国に行って乞食をしたのは、国と首領様を侮辱した(イメージを壊した)というわけだ。わたしは持ってきたコメを取り上げられ、拷問を受けた。わたしのように捕らえられたほかの人たちももっとひどい拷問を受け、それがわたしにとっては大きな心の傷となった。そんな不義がわたしをして北朝鮮を脱出させることにした。
2006年に松葉杖をついて弟と一緒に脱北した。別れるとき父と酒をかわしたのを思い出す。父は涙を見せ、わたしもこの先どうなるかわからないので共に抱いて泣いた。わたしと弟は豆滿江を北のほうに渡った。松葉杖を手にもって渡る時、いきなり深みにはまったりもした。弟がわたしの頭をつかんでなんとか豆滿江を渡ることができた。弟には頭があがらない。
松葉杖をついて中国、ラオス、ミヤンマーと、2千キロの路程を越えてタイについた。路程の中で一番困難だったのはラオス国境をこえるときだった。松葉杖をついてこえるのが辛くて死にたいくらいで、北朝鮮に生まれたことが本当に恨めしかった。そのとき、わたしのような苦痛を味わう人がいなくなる世界を作るために死んでも努力すると祈り、心に誓った。
2006年7月、わたしは長い旅程の末に韓国に着き、ソウルに来た。そのとき一番うれしかったのは、義足と義手をもらったことだ。韓国政府はそれを提供してくれた。わたしはこのうれしさを父と一緒に分かち合おうと北朝鮮に連絡をとった。ふるさとの知人たちと連絡がついたが、父が死んだという衝撃的な連絡を受けた。わたしの家族が中国に脱北し、父が最後に脱北したのだが、捕まって拷問を受けた。拷問の末に命を落とし、遺体は誰もいない家にそのまま置いて行かれたとふるさとの人が言った。わが家族の悲劇とわたしの障害にもかかわらず、わたしはあきらめなかった。わたしは堂々と生きようという幼いときの願いを思い出した。父はわたしが大学に行くことを望んだが、わたしは大学を卒業してその願いを叶えることができた。自由大韓民国に到着してわたしは、北朝鮮の障害者と北朝鮮の人権の代弁者にならねばと誓い、責任を感じた。それでわたしは小さな事務所で友と一緒に「ナウ」を立ち上げ、過去4年間、わたしのような幼い子供たちや女性を中国を通して脱北させた。その数は100人を超えた。(2015年現在の話。今はもっと増えているだろう。筆者注)
北朝鮮では人民はインターネットがないため、わたしたちは真実、文化、知識をラジオを通して伝えている。北朝鮮に真実を知らせることが重要なのはもちろん、北朝鮮以外の消息を知らせることも重要だ。ジャンマダン(北朝鮮の市場)とラジオを通して北朝鮮が変わると考える。
わたしは今日、死の危機を克服してこの場に立った。これがわたしが1万キロをともにした松葉杖だ(杖をとりにいく)。この杖は、わたしがあきらめることなく自由を求めてきた象徴でもあるけれども、なくなった父が作ってくれた最後の遺品でもある。北朝鮮の自由のために、わたしのできることはなんでもやることを誓うものだ。重要なことは皆さんが北朝鮮のために一緒にやってくれること。そのとき北朝鮮に自由が必ずやってくるものと信じる。皆さん、一緒に歩んでください。(スタンディングオベーション)。ありがとうございます。サンキュー。
ここまでの内容。一度ユーチューブで本人の演説を聞いてみていただけるとありがたい。涙なしには見れない映像である。この人が今回2020年、韓国の4.15選挙で当選したのである。北朝鮮に刺激を与えたくない現政権は、こういった人たちをどうやって活かし、いかなる態度で接するのであろうか。
■筆者プロフィール:木口 政樹
イザベラ・バードが理想郷と呼んだ山形県・米沢市出身。1988年渡韓し慶州の女性と結婚。元三星(サムスン)人力開発院日本語科教授、元白石大学校教授。趣味はサッカーボールのリフティング、クラシックギター、山歩きなど。著書に『おしょうしな韓国』、『アンニョンお隣さん』など。まぐまぐ大賞2016でコラム部門4位に選ばれた。 著書はこちら(amazon)Twitterはこちら※フォローの際はメッセージ付きでお願いいたします。
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