工藤 和直 2020年5月22日(金) 23時50分
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胡廂使橋は宋時代の官職から名付けられたが、廂使(Xiang Shi)は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味で、七夕の時は橋の上で男女が密会する場所にもなった。
第四直河は別名“平江河”と呼ばれ、宋代の原型を留める運河である。歴史そのままを残しているので、是非一度は訪問される事を希望する。橋には説明碑があり、宋時代の武康石や明・清時代の“青石”(青みを帯びた凝灰岩)などの石造りを確認できる。華陽橋から約2km弱の距離だが、多くの古橋を堪能することができる。この平江河東沿いに南北に走る街路は「平江路」と呼ばれる。
この平江河には第二横河(干将河)の苑橋から華陽橋との間に12座の古橋があり、一つ一つに故事を持つ。南宋時代の「平江図」とも同じ場所だと断定できる橋が12座であることから、蘇州城内で古橋を半日で見たいなら是非とも平江路を推薦したい。宋時代から現存する12座の橋は、北から渓・慶林(平江図では慶暦)・保吉利(打急路)・胡廂使・唐・通利・朱馬交・衆安・青石(蘇軍)・勝利(慶織)・雪糕・寿安(寺後)・思婆(寺東)である。いずれも明・清時代に何度かの改修を行い、一部分に宋時代の“武康石”(浙江省徳清県産で紫色に輝く凝灰岩)が残っており、基本構想は800年変わってないのが特徴である。青石橋(平江図では蘇軍橋)には高価な青石が全面に使われており、必見の価値がある。
胡廂使橋は宋時代の官職(廂使)から名付けられたが、廂使(Xiang Shi)は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味で、七夕の時は橋の上で男女が密会する場所にもなった。今でもこの橋の上で結婚式用の花嫁花婿の写真を撮る光景が見られる(写真1)。
思婆(平江図では寺東)橋は尼僧院の東にあった古橋で、尼僧の事を師(Shi)婆と呼んだが、蘇州語の曖昧な発音から思(Si)となったものだ。この通りは思婆巷と言うが、ここに住んだのが近代中国史上有名な“賽金花”(本名:趙彩雲)女史である。清朝末期に蘇州の官僚“洪鈞”(清代状元)の側室となったが、洪鈞と赴任したドイツで語学を習得、義和団事件では8カ国連合軍を率いたドイツの将軍を説き伏せ、市民との衝突を回避させた。また1930年代には日帝の進出に対しても同様に愛国的な行動をした女性であった。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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