<コラム>昔日の蘇州古橋が残る“望星橋巷”と“忠信橋巷”を歩く

工藤 和直    2020年5月30日(土) 20時20分

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平江路が苑橋で終われば、干将河を越えた興市橋からその南、葑門までの8つの橋は蘇州一級品の古橋である。

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平江路が苑橋で終われば、干将河を越えた興市橋からその南、葑門までの8つの橋は蘇州一級品の古橋である。蘇州城内は水上輸送から陸上自動車輸送に時代が変革する中、1980年代に入り多くの橋はその役目を終え、平橋への改築が主になった。この望星橋巷・忠信橋巷は幸い交通不便のままで生活が存続できたがためか、折橋・アーチ橋がそのまま残った。その姿は今後とも蘇州市の財産として永久に残らん事を切に希望する。

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興市橋南にある官太尉橋(宋代創建、清代数度重建)は呉郡志によると、官と言う太尉が近所に住んだ。呉王橋(呉夫差時代創建)、往時は東西両方に支流があり西に胭脂橋、東に仙境橋があった。呉王夫差は西施と西の錦帆渓から船に乗り、この橋で降りたので呉王橋と言われた。

葉家弄にある寿星橋(南宋西暦1178年創建、写真1)は当初は営橋と呼ばれた。付近に陶器の寿命像が出たのが由来、その南にあった百獅子橋の遺石を1965年移設改修、橋梁には武康石(浙江省徳清県産で紫色に輝く凝灰岩)を使い宋代の趣が残る(写真2)。十梓街の東端になる望星橋(南宋紹定2年創建)は、城東水陸交通の要所であった。往時から多くの外来船が寄航、手紙(信)を待ち望んだと言う由来で“望信橋”と言われた。民国時代に現在名に変更。

西の盛家帯から渡る忠信橋(清代嘉慶創建花崗岩折橋、写真3)は当初は中信橋と呼ばれ、同治年間に現名になった。春三月、蘇州大学南門にある望門橋(ここから葑門が見えた)から運河沿いを歩くと、柳の枝や紫色の桐花が川面に映え、ゆっくりと時間が過ぎる。以上が蘇州城内「第四直河」で是非とも訪れたい古橋である。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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