近代日本人はどのように失敗に向き合い、「黄色人種が白色人種に勝つ」という神話をつくったのか―中国メディア

Record China    2020年12月10日(木) 13時20分

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7日、澎湃新聞は「近代の日本人は、どうやって失敗に対処したのか」と題し、幕末の薩英戦争について紹介する記事を掲載した。写真は島津久光の銅像。

2020年12月7日、中国メディアの澎湃新聞は「近代の日本人は、どうやって失敗に対処したのか」と題し、幕末の薩英戦争について紹介する記事を掲載した。以下はその概要。

薩摩藩主・島津茂久の父である島津久光の行列に乱入した英国人を薩摩藩士が殺傷した生麦事件が1862年に発生すると、英国の駐日公使は直ちに徳川幕府に賠償を請求した。幕府から10万ポンドの賠償を得た英国側は、さらに薩摩藩に対しても賠償を請求。交渉と威嚇のために63年8月11日に7隻の艦隊を鹿児島湾に到着させ、生麦事件の犯人の処罰と賠償金を請求する国書を提出した。

これに対し、島津家は英国側と戦い、艦船を奪うことで威武を見せつけようとした。そこで藩士が偽の使者として英国艦船に上陸し、奇襲を仕掛ける計画を企てるも英国側の警戒もあり未遂に終わる。結局両者の衝突を回避することはできず、15日には英国が薩摩藩の蒸気船3隻を強奪、乗員を捕虜に取って金銭の支払いを要求。これに激怒した薩摩藩は藩内の砲台から砲撃の命令を下し、英国艦船に対し激しい砲撃が行われた。

かくして薩英戦争が始まったものの、日本人が使っていた砲弾はただの鉄球だったのに対し、英国側は最新式の火器に爆薬入りの砲弾と装備の差は明らかであり、英国側が反撃に出ると薩摩藩の砲台は英国側の砲火により火の海となった。

互いに損害を出し合って終わった薩英戦争だったが、鹿児島城下が砲火で燃えるのを見た島津久光は英国の装備が自分たちよりもはるかに優れていることを悟り、以後薩摩藩は門戸を開き、英国から学ぶ姿勢を持つようになった。

そして、薩英戦争に関わった青年たちも英国との差をはっきりと認識し、続々と海外留学するようになり、帰国後に明治期の日本を動かす重要な人物になっていった。そのうちの1人である東郷平八郎は1904年の日露戦争で大きな役割を果たし、ロシアのバルチック艦隊を破り、黄色人種が白色人種に勝つという神話を作り上げたのである。(翻訳・編集/川尻

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