シルクロード友好使者 、バレエを通して中国の物語を描き出す日本の「白毛女」―中国メディア

人民網日本語版    2021年12月22日(水) 21時40分

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松山樹子さんは際立った先見の明や洞察力を備えたアーティストで、60年以上前に映画「白毛女」をバレエ化して、日本の舞台で披露し、一衣帯水である東の隣国日本で、日中友好の炎を灯した。

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松山樹子さんは、背が高く、足の形がきれいで、生まれ付きバレエの素質を備えていた。また、松山さんは際立った先見の明や洞察力を備えたアーティストで、60年以上前に「紅色経典」(共産主義模範作品)の1つである映画「白毛女」をバレエ化して、日本の舞台で披露し、一衣帯水である東の隣国日本で、日中友好の炎を灯した。そしてその炎は今も引き継がれている。松山バレエ団は2020年「シルクロード友好使者」に選出された。

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松山さんは13歳の時に、念願のダンシングチームに入団し、当時最年少のバレリーナとなり、17歳の時には別のバレエ団で、プリマバレリーナを務めた。また、公演を通じて、内務省国土局技官の清水正夫さんと出会った。清水さんは、彼女にカバンをプレゼントし、彼女の生涯のパートナーとなった。1947年に結婚した二人は、翌年に松山さんの名前を冠した「松山バレエ団」を設立した。

松山バレエ団は、国際文化交流活動の展開が持ち味で、松山さんは、「白毛女」の初代「喜児」役のバレリーナだ。ある偶然の機会に、夫婦で中国映画「白毛女」を鑑賞して、深く感動し、そのストーリーをバレエ化することを思いつき、中国戲劇家協会に手紙を書いて、関連資料を提供してほしいと頼んだという。

1953年末、松山さん夫婦は、返事の手紙を受け取った。それには、歌劇版「白毛女」の台本や楽譜、舞台写真なども入っていた。その後のバレエ化の過程で、松山さんは、ヒロイン「喜児」のためにシルバーホワイトの衣装をデザインし、自らその役を演じた。1955年の寒いある冬の日、バレエ版「白毛女」の東京初公演が行われ、苦しんでいる人が解放を求めるというそのテーマに、多く人が共感を覚え、カーテンコールの時には拍手がなかなか鳴りやまなかった。中には感動のあまり涙を流す観客もおり、「アンコール」の声が巻き起こった。

同年10月、松山さんは招きに応じて中国を訪問し、芸術交流を行った。天安門広場で閲兵式を見た松山さんは目に涙を浮かべ、「白毛女を演じ、その物語を通して、中国と密接に結ばれるようになったのかもしれない」と感じたという。周恩来総理は接見した際、松山さんのことを親しみを込めて「日本の『白毛女』」と呼び、中国歌劇と映画で「白毛女」を演じた王昆さんや田華さんを紹介した。この周総理の計らいにより、3人の「白毛女」が一堂に会するというシーンが実現し、3人は深い友情を築いた。中国の「白毛女」のサポートの下、松山さんはバレエ版「白毛女」に大きな修正を加え、さらに磨きをかけた。

当時、日中の国交はまだ正常化していなかったものの、松山さんは「隣国である日中が永遠に隔絶されたままであることは絶対にない」と確信していた。1958年、彼女は民族感情や特殊な時代の歴史的足かせ、さらに、日本国内の非難、妨害を乗り越え、バレエ団の一行46人を率いて、北京、上海重慶武漢などで「白毛女」の公演を行った。そして、行く先々で大きな反響を呼んだ。それら都市では、人々がチケットを購入するために徹夜で列を作り、会場は満席となった。

それほどの魅力の背後には、中国のストーリーのパワーのほかに、松山バレエ団のアートに対する高いこだわりがある。バレエ団のメンバーはよく、「公演の時には、一番端にいるバレリーナを見てほしい。そのバレリーナも、ヒロインと同じように、感情を込めた踊りをしている。全てのバレリーナの目が真ん中のヒロインと同じように輝き、全てのバレリーナが一つになって燃えているならば、必ず人の心を動かすことができる」と、自信に満ちた目つきで語っていた。

その後の約60年、松山バレエ団の二代目「喜児」の森下洋子さん(松山さんの息子の妻)は中国を16回訪問して「白毛女」の公演を行った。その素晴らしいバレエの表現、描き出す人物像と的確な感情の表現で、無数の観客を魅了し、バレエを通して、日中民間友好交流の架け橋を築いた。両国関係にひびが入って冷え切った時も、逆に暖かい春を迎えた時も、松山バレエ団は中日友好のために終始、自分たちのできることをして貢献してきた。

日中関係が冷え込んだ時には、松山バレエ団はいつも勇敢に行動を起こし、友好の旗を掲げた。例えば、2016年、森下さんはバレエ団の若いメンバーを引き連れて延安を訪問し、魯迅芸術学院で「白毛女」のルーツ探しをした。そして森下さんは「延安の精神を理解しなければ、中国の革命を理解することはできない。中国の革命を理解しなければ、『白毛女』を理解し、その精神的力を、見る人、若者に伝えることはできない」とした。

何度も中国公演を行っている松山バレエ団は、中国共産党や国家の指導者とも何度も接見してきた。例えば、1964年10月1日、清水さん夫婦は招きを受けて天安門の城楼で初めて毛沢東主席と接見した。その後、毛主席は松山バレエ団の公演で「白毛女」を鑑賞した。松山さんは、「毛主席は『上海舞蹈学校があなたたちの後に『白毛女』をバレエ化したので、あなたたちは先輩だ。芸術は伝統を尊重しなければならないが、イノベーションも大切で、大衆向きでなければならない』と話しておられた。当バレエ団は今でも、周総理にいただいた衣装や道具をきちんと保存しており、正式な公演の時には森下がその衣装を着ている。バレエ団の練習場の後ろには、中国と日本の国旗が高々と掲げられている」と話す。

2008年5月、清水さんは杖を突きながら、バレエ団のメンバーを引き連れて在日本中国大使館を訪れ、四川大地震の犠牲者に哀悼の意を示し、被災地に寄付を行った。その約1カ月後、清水さんは亡くなった。享年87歳だった。

2020年2月、新型コロナウイルスが中国で猛威を振るっていた時、松山バレエ団は消毒液やマスクを寄贈したほか、メンバーが中華人民共和国の国歌を大きな声で合唱し、「私たちは中国が大好き!武漢がんばれ!中国がんばれ!人類がんばれ!」と大きな声でエールを送る動画を送り、たくさんの中国人が隣国のその誠実な思いに感動した。

中国と日本は一衣帯水の隣国で、同じ風や月の下にある。「がんばれ」という声は、新型コロナウイルスとの闘いという非常事態において、日本の人々の心から中国を応援する気持ちの表れで、「一帯一路(the Belt and Road)」における人類運命共同体の描写でもある。松山バレエ団は、「危機的な時こそ、芸術団体が行動を起こし、バレエを通して、一人でも多くの人に希望や夢を伝えなければならない時だ」とする。中国の文学者・郭沫若が1958年に、同バレエ団に送った言葉の中で、「芸術は国境を超える。特に舞踊は、言葉を使うことなく、イメージだけを頼りにしており、人類の共通語と言うこともできる」とつづっているように、同バレエ団は芸術という人類の共通語を通して、「一帯一路」に、国境を超える文化の架け橋を築いている。

そのため、松山バレエ団は2020年「シルクロード友好使者」に選出された。しかし、残念なことに、今年5月22日、松山さんは東京で亡くなった。享年98歳だった。それでも、松山さんと清水さんが生涯かけて実践した中日友好のコンセプトは、同バレエ団の森下洋子理事長と清水哲太郎総代表(松山さんと清水さんの長男)がしっかりと受け継いでいる。

「シルクロード友好使者」という栄誉を受けたことについて、清水哲太郎さんは「数千年にわたり、中国はシルクロードを通して、日本に非常に多くの文化的な恩恵をもたらしてくれた。『白毛女』は『一帯一路』の文明相互参考の縮図ともなっている。『一帯一路』に参加する国々でバレエ版『白毛女』の公演をして、たくさんの人に見てもらうことが当バレエ団の今後の夢だ」と語った。(提供/人民網日本語版・編集/KN)

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