【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(3)中華道統の礎を築いた前漢王朝

潘 岳    2021年12月29日(水) 20時30分

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漢朝の体制が最終的に固まるのは武帝〔劉徹〕の時代である。中国の「大一統」の政治構造を構築した漢の武帝。(CNS Photo)

一体多元の「大一統」

中国の前漢王朝と共和政ローマは同時代に存在した。新王朝の初期、文帝・景帝と続いたわずか40年の間に、漢朝は「皇帝が同じ毛色の馬を4頭揃えられない〔皇帝用の四頭立て馬車を用意できないという意味、それほど困窮していたということ〕」(7)状態から食糧があり余っている状態になった。これだけ急速に豊かになったのはなぜか。朝廷が同一の文字、貨幣、度量衡を利用して巨大な市場を創出し、商取引を通じて各地方の経済を全国的に結び付けたからだと司馬遷はいう。分業は商品交換を生み出し、この「交換価値」が社会全体の富を増やし、同時に農業生産性の飛躍的向上を促したのである。このプロセスを通じて土台となり前提となったのが天下の「大一統」だった(8)。

漢朝の体制が最終的に固まるのは武帝〔劉徹〕の時代である。武帝は二つの大事業で中国に貢献した。一つは、地方諸侯の勢力を弱体化させ中央権力を郡県に直通させたこと、そしてこれを土台に「大一統」の儒家政治を確立したことである。もう一つは、国家の版図の基礎を築いたことである。

儒家政治の主な基礎は魯の国の年代記に孔子が筆削した『春秋』である。後世に流布している多くの版のなかで、前漢の儒学者・董仲舒が高く評価した『春秋公羊伝』、すなわち公羊学派が最大の影響力をもっていた。

公羊学の核心は「大一統」である。その最もユニークなところは、皇帝の権力を完成させると同時にそれに制限を加えたことだろう。中国の「天に奉じて運を承る〔天の意に従い天命を受ける〕」は西洋の「王権神授」説とは違う。ローマの「皇帝神格化」は民意と無関係だった。しかし、古代中国では天の意思は民意を通じて体現されねばならなかった。人民にとって良き天子であってはじめて「天」は皇帝を「天子」と認める。人民にとって好ましくなければ天は皇位を別の人間に賦与する。こうして天子、天命、民意の三つは抑制と均衡の関係を形づくる。つまり、天子は天下を司り、その天子は天命に従うが、天命はすなわち民意ということだ。権力には責任がともない、責務を尽くさなければその権力は合法性を失うということがここで強調されている。

漢の武帝は董仲舒の政治理論を受け入れ、手始めに次のことを官衙に命じた。時勢に明るく孝〔父母への孝順〕であり廉〔清廉潔白〕である寒門〔身分の低い貧しい家柄〕の儒者を民間から探すこと、そしてこれを側近として皇帝に推挙することである。このため、武帝の時代には平民出身の名臣が数多く輩出した。また、これ以降、官途に入り栄達するには儒家倫理の修得が不可欠になった。

文官政治の察挙制度〔推薦を主とする官吏登用制度〕もこの時期に始まった。門閥富豪にだけ頼っていては天下を治めることはできず、むしろ道理をわきまえ、道徳心にあふれ、知識と責任感に秀でた下層の人物に権力を分与することではじめて民心を束ね政権基盤を拡充することができる―武帝にとってこれは自明のことだった。武帝は儒者に官吏を兼ねさせることで「統治」と「教化」の抱合を実現した。このときから地方官吏は行政に責任を負うだけでなく、教育にも責任を負わなければならなくなった。

さらに、武帝は文官を統制するために「刺史制度」を設けた。中下級官吏の一定数を刺史とし、不定期に地方行政の督察にあたらせたのである(9)。地方豪族の大土地所有をけん制することと、地方官吏の職業的モラルを維持することが目的だった。これは歴代中央監察制度の端緒である。

劉徹〔武帝〕の「百家を罷黜し、独り儒術のみを尊ぶ〔諸子百家を排斥して儒家思想だけを尊ぶ〕」は実際には間違って理解されている。武帝は董仲舒だけではなく、法家の張湯、商人の桑弘羊、牧畜業主の卜式、ひいては匈奴の太子・金日磾をも登用している(10)。みな『春秋』を読んでいたとはいえ儒者ではない。前漢政治は思想から実践にいたるまですべてが多元的である。多元的だというのなら、なぜ儒家思想で縛りをかける必要があるのか。それは、一体性がなく多元的な勢力均衡論のみに頼っていると最後は必ず分裂するからだ。逆に「大一統」さえあれば、多元的な思想を一つの共同体内に共存させることができる。

多元一体の「大一統」こそ漢の精神なのである。

「天下人心」を映し出す鏡―史官制度

中華文明は「公権力」から「絶対的自由」を保った西洋型の知識人を生み出すことができなかったという説がある。その際、司馬遷が西洋型に近い唯一の例外だともいわれる。曰く、司馬遷は董仲舒を師と仰ぎ儒学を学んだが、むしろ道家の「無為をして治める〔人為によらず天下を治める〕に敬服しており、自由放任の商業社会のほうを好んだ。『史記』では刺客、侠客、商人に王侯将相と同じ「列伝」の待遇が与えられている。勇気をもって武帝を批判し(11)、自ら名乗り出て濡れ衣を着せられた大臣を擁護し、それが原因で刑罰に処せられた、と。

中国最初の紀伝体通史『史記』を書き上げた司馬遷(CNS Photo)

しかし、結局のところ司馬遷は世俗を超越したギリシャの学者と同じではない。司馬遷は武帝の政治流儀を好まなかったけれども、地方勢力弱体化には賛辞を惜しまず、国家騒乱をなくす抜本的措置だと考えた(12)。生涯を通じて貧しかったが金持ちに不平不満を抱いたことがなく、商人の富はほとんどが経済法則を把握し懸命に働いたおかげで得たものだと考えた(13)。酷吏〔法に威をかりて人を罪に陥れ、容赦なく処罰した役人〕に痛めつけられても法家に遺恨を抱かず、それどころか法家の政策がうまく実行されれば社会の長期安定を維持できるとさえ考えた(14)。

司馬遷は体制に対して合理的な批判を展開したが、それらはすべて個人的苦痛から出たものではない。「個人の得失」は眼中になく、全体の利益だけを重視したからである。ことさらに自由を追い求めたが故に公権力を批判したのではなく、それが天下にとって有害と考えたから批判したのである。称賛もそうだ。公権力の暴威に屈したからではなく、それが天下にとって有益だと考えたから称賛したのである。個人の自由と集団の責任は司馬遷のなかで弁証法的に統一されていた。これは、中国知識人が西洋知識人と区別される際立った特徴である。

司馬遷は『史記』で武帝を批判しただけではなく、漢朝を開いた皇帝・劉邦の邪推や呂后による政治の乱れ、功臣名将の欠点も書き、漢朝成立を少しも神聖視するところがなかった。にもかかわらず、漢朝は『史記』を公式に集成した国史として後世に伝えていった。すべてを積極的に受け入れる意思と自己批判の精神がなければできないことである。漢朝は皇帝を評価する権限を史官に与えた。歴史は中国人の「宗教」に相当し、歴史の評価は宗教裁判に相当する。この原則は歴代の王朝に引き継がれていった。

華夏の正統は中華の道統〔本来、儒学の道を正統とする考え方を指すが、ここでは広く倫理的、政治的規範の意〕である。大規模政治体が長期にわたって安定するには、社会の各集団、各階層がこの道統を価値観として共有しなければならない。中華の道統の核心は中道、寛容、平和であり、それはある種の原則、境地、法則、価値を体現したものだ。皇帝から臣民にいたるまで、社会階層のすべてが各々の道に従わなければならない。「公」のためか「私」のためか、「大一統」の維持か分裂か、正しい道は高々と掲げられており、だれもその「道」というものから逃れることはできない。

(7)韓兆琦訳注『史記・平準書』中華書局、2010年、P2344。

(8)前漢王朝が成立した年、中央が直接統治していたのは15の郡にすぎず、これは全国のわずか3分の1だった。他方、斉、楚、呉のような大諸侯は5~6の郡と数十の都市を擁していた。景帝の時代には呉楚七国の乱が起こり、武帝の時代にも淮南王、衡山王の乱があった。

(9)「一条,強宗豪右,田宅踰制,以強凌弱,以衆暴寡。二条,二千石不奉詔書,遵承典制,倍公向私,旁詔守利,侵漁百姓,聚斂為姦。三条,二千石不恤疑獄,風厲殺人,怒則任刑,喜則任賞,煩擾苛暴,剥戮黎元,為百姓所疾,山崩石裂,妖祥訛言。四条,二千石選置不平,苟阿所愛,蔽賢寵頑。五条,二千石子弟恃怙栄勢,請託所監。六条,二千石違公下比,阿附豪強,通行貨賂,割損政令」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P623~P624。〔百官公卿表第七上「武帝元封五年初置部刺史,掌奉詔条察州」につけられた顔師古の注で、「六条問事」といわれる。一条で強宗豪右すなわち豪族の、二条以下は二千石すなわち郡太守の不法行為を列挙しており、これを監察対象とした〕

(10)「卜式拔於芻牧,弘羊擢於賈豎,衛青奮於奴僕,日磾出於降虜,漢之得人,於茲為盛。儒雅則公孫弘、董仲舒、兒寬,篤行則石建、石慶。質直則汲黯、卜式。推賢則韓安國、鄭當時。定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚皋,應對則嚴助、朱買臣,曆數則唐都、洛下閎,協律則李延年,運籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,將率則衛青、霍去病,受遺則霍光、金日磾,其餘不可勝紀」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P1998~P1999。〔公孫弘卜式兒寬伝第二十八からの引用、傍線は人物名でいずれも武帝が登用した官吏。それぞれの出自や業績が書かれている〕

(11)韓兆琦訳注『史記・汲鄭列伝』中華書局、2010年、P7100。

(12)韓兆琦訳注『史記・漢興以来諸侯王年表』中華書局、2010年、P1492。

(13)韓兆琦訳注『史記・貨殖列伝』中華書局、2010年、P7662。

(14)韓兆琦訳注『史記・秦楚之際月表』中華書局、2010年、P1437。

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(3)中華道統の礎を築いた前漢王朝」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。
著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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