【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(4)商業道徳の東西比較

潘 岳    2021年12月30日(木) 15時50分

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漢代の学者・桓寛が著した『塩鉄論』。桑弘羊の経済思想を比較的まとめて記録している。(写真提供:潘岳)

仁政の負担

2017年の夏、モンゴル・ハンガイ山脈。中国とモンゴルの合同考古学チームはある赤褐色の石壁で摩崖石刻〔懸崖に彫刻した文字や仏像〕を発見した。専門家の考証を通じて、これが数多くの古い書物に登場する「燕然山の銘」―漢が匈奴に大勝したあと〔班固の言葉が〕刻まれた碑文―だと確認された。

この碑文はローマ帝国にとっても重要である。燕然山の役が200年におよぶ漢と匈奴の一進一退の戦いに終止符を打ち、その結果、北匈奴は西に逃れ、これが中央アジア草原民族西進の連鎖反応を引き起こしたからにほかならない。

匈奴が西に向かったのはなぜか。2013年、米国の古気候学専門家エドワード・クックが気候変動との直接的関係を指摘している(15)。2世紀から3世紀、モンゴル高原と中央アジア草原は100年におよぶ深刻な干害を経験し、生きていけない遊牧民族は中国に南下するか、欧州に西進するかしかなかった。そして、漢との戦争でついぞ勝利を手にすることができなかった匈奴には西進以外の選択肢がなかった。匈奴は中央アジア草原の遊牧民族とともに農業文明の中心―ローマを目指し、最終的に西ローマ帝国を瓦解させることになる。

漢朝が匈奴の南下に抵抗し続けなかったら、東アジアと世界の歴史は書き換えられていただろう。漢の武帝は即位から7年後(133年)、いつまでも続く匈奴の侵犯に我慢がならず、以降12年続く匈奴との戦争にふみきった。霍去病が遠征し、最後は河西地方〔今の甘粛省〕に諸郡が置かれる契機となった決戦のさなか、匈奴の渾邪王が4万の部衆を率いて投降した。そして、投降した彼らを武帝は辺境の地に安住させることにしたのである。悪事の限りをつくした匈奴を今は官費で養わなければならない、漢の民がその面倒をみなければならない、これは中国の根幹を傷つけることになる、家臣たちはそう諫めた(16)。武帝は熟慮の後、皇室で費用を負担して匈奴部衆の平穏な暮らしを保証することにした。

戦争で負けた者たちを奴隷にするどころか自腹を切ってまで扶養するのは何のためか、疑問をもつ人もいるだろう。答えはこうである。儒家「仁政」思想が支配的だった当時、漢朝が必要としたのは人心の帰順だったからである。匈奴部衆の帰順に嘘がなければ、それだけで十分彼らは中国の民であり、仁義と財貨をもって遇する必要があるということだ。

しかし、仁政の負担は非常に重かった。中原と草原が同時に天災にみまわれると大量の小農民が困窮し、土地と家屋を豪商に売らなければ生きていけないところにまで追い詰められた。その一方で、これに乗じて利益を手にした投機的商人や大地主は一貫して国家の利益に無関心だった。朝廷が動乱平定資金の援助を要求しても、あろうことか「勝算が見込めない」のを口実に断ることもあった(17)。

こういう状況に対して官も民も、農業と商業の矛盾を解決する方法を探し続けた。法家思想を前面に出す人々は「重農抑商」を提起した。しかし、商業は漢朝繁栄の礎だった。一方、儒家は農業税の減税を主張した。しかし、税収が減ったら中央はどこから災害対策費、戦費を調達するのか。

武帝の時代になってようやく、桑弘羊という商人がこの問題に有効な解決を与えることになった。

国家に尽くす儒家商人

商人出身の桑弘羊は13歳のときに宮廷に仕え、当時16歳だった劉徹〔武帝〕の伴読〔勉強のお供〕を務めた。20年後、商人がまたもや資金援助を拒否したとき、業を煮やした劉徹は桑弘羊の立案で全国の製塩業と鋳鉄業を全面的に政府管理下におく〔専売制〕命令を出した。紀元前120年のことである。塩と鉄は古代社会最大の消費物資であり、政府はこの最大の財源を独占したのである。

桑弘羊はほかにも「均輸法」と「平準法」をあみ出した。

各地方は余剰産品を朝廷に献上し、朝廷は官のネットワーク経由でこれを不足地域に配分するというのが均輸法である。このおかげで政府は農業税を増税しなくても巨大な財力を得ることができた。一方、平準法は同じく官のネットワークを通じて価格変動を解消するものである。ある商品の価格が高騰した場合、国家は市場に該当商品を廉価で放出し、逆に暴落した場合は買い入れる。こうすることで物価が安定するというものだ。

桑弘羊はさらに貨幣も統一し、分散していた鋳造権を朝廷に一元化した。まさにこうした一連のマクロコントロール政策と、中央財政が体制的に確立したおかげで、漢朝は天災による農業被害と匈奴の侵犯を克服する力を得ることができた。そればかりか、この経済力のおかげで漢朝は数々の業績を残すことができたのである。

桑弘羊は商人の気質をそなえていたが、同時に儒家の考え方もしっかり身につけていた。個人で蓄えた富を屯田〔辺境の兵士が耕す土地〕の開拓や水害対策に投じ、国家のために「天下を切り盛りした」。商人たるもの、いかなる規制にも縛られない「個人商業帝国」の建設を追求するべきなのか、それとも「独り其の身を善くする」にとどまらず「天下を兼く済う〔世の民の幸福のために尽くす〕」のか、商道の使命はいかに―この永遠のテーマを桑弘羊は後世の中国商人に残したのである。

西洋の商業観

桑弘羊と同時期のローマ帝国で、最大の豪商といえば「ローマ一の金持ち」クラッススである。クラッススはローマに消防隊がないのをいいことに、以下の方法で富を築いた。まず500人の私有奴隷で自前の消防隊をつくる。そして、火事がおこるとその家に向かい、家を安価で自分に売るよう要求する。家主が承諾すれば消火をはじめるが、拒否すればそのまま焼けるにまかせる。家主は仕方なく廉価で売らざるを得ないわけだが、そのあとクラッススは修築して当の「家主」を住まわせ、高額の家賃を搾り取る。このようにして彼は「火事場泥棒」よろしくローマ市内の大半の家屋を買い占めた。また、クラッススはローマ最大の奴隷斡旋業も営んでいた。彼の遺産はローマの国庫収入1年分に相当したという。

クラッススはパルティア遠征中に亡くなったが、彼が従軍したのは国家のためではなく自分のためだった。新たな属州を征服した者はその地の富を優先的に収奪する権利があるという暗黙のルールがローマにはあったからだ。クラッススのような商人兼政治家がもし中国にいればどうなるか。身代を築いたそのやり方は商業界全体から軽蔑されただろう。政治のリーダーになるなど論外である。しかし、ローマでは違う。その人物の財力が強力な軍隊を賄うのに十分であれば、あるいは大量の票と交換するのに十分であれば、それだけで政界トップの座に居座ることができたのである。

中国の商業精神は儒家農業文明から枝分かれした傍系である―これは近代以降にみられる考えだが事実ではない。商業精神はまぎれもなく儒家農業文明に内在する重要な構成要素だった。儒家思想を受動的に受け入れたのではなく、それに実質的な修正を加えたのである。

すでに戦国時代には、斉の宰相・管仲が市場による富の調整、貨幣による価格形成、利益システムによる社会的行為の誘発を提起し、行政権力の強制的な規制に反対していた。これは非常に近代的な考え方である。資本主義経済の成長発展はなくとも商工業文明の種は当時からすでに中国にあったということがわかる。

中国の商工業文明は生まれてすぐに儒家のモラルに、後には「家国責任〔国のために尽くすことを責務とする〕」にも縛られたが、これこそまさに二重の束縛であり、その結果、西洋タイプの企業家が中国では遅々として生まれなかったという人がいる。しかし、モラルと「家国責任」の問題に答えなければならないのはむしろ今日の西洋企業家のほうである。自己の利益を純粋に追い求めていけば自ずと社会共通の利益に到達するのか。国家の利益と個人の利益をどうやって明確に線引きするのか。国家主権から離れたところに自由経済は存立し得るのか。中国は2000年の昔からすでにこれらの問題を考え始めていたのである。

(15)エドワード・クックは気候システムに関するある仮説を提起、4世紀に中央アジアで干害が発生したのとほとんど同時にフン族(the Huns)がはじめて西に移動しローマ帝国に侵入したとした。Nicola Di Cosmo、Neil Pederson、 Edward R. Cook「Environmental Stress and Steppe Nomads:Rethinking the History of the Uyghur Empire(744―840) with Paleoclimate Data」『Journal of Interdisciplinary History』XLVIII:4(Spring、2018)参照。

(16)「臣愚一位陛下得胡人,皆以為奴婢以賜従軍死事者家……今縦不能,渾邪率数万之衆来降,虚府庫賞賜,発良民侍養,譬若奉驕子。……是所謂‘庇其葉而傷其枝’者也」韓兆琦訳注『史記・汲鄭列伝』中華書局、2010年、P7113。〔匈奴を奴隷にして戦死した兵の家に渡すことは今すぐできないにしても……渾邪王が降伏したのに国庫から報償を与え、わが国の良民に世話をさせるのはわがまま息子を甘やかすのと同じで……「葉を大切にして枝を傷つける」ことだ、がおおよその意味〕

(17)「呉楚七国兵起時,長安中列侯封君行従軍旅,齎貸子銭,子銭家以為侯邑国在関東,関東成敗未決,莫肯与」韓兆琦訳注『史記・貨殖列伝』中華書局、2010年、P7620~P7621。〔呉楚七国の乱のとき、諸侯大名は従軍のため金を借りなければならなかったが、金貸業者はどちらが戦いに勝つかわからないといって誰も貸さなかった、がおおよその意味〕

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(4)商業道徳の東西比較」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。
著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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