【東西文明比較互鑑】中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(3)中西比較

潘 岳    2022年1月5日(水) 14時40分

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歴史観は文明に由来し、文明が異なれば歴史観も異なる。中国五胡は中華文明の「合の論理」を発展させ、欧州蛮族はローマ文明の「分の論理」を増幅させた。写真は山西省大同市にある雲崗石窟。(中国新聞社)

自治と郡県

歴史観は文明に由来し、文明が異なれば歴史観も異なる。中国五胡は中華文明の「合の論理」を発展させ、欧州蛮族はローマ文明の「分の論理」を増幅させた。

ローマ帝国は統治機構の上層に文官システムを有していたとはいえ、その本質はやはり下層すなわち末端の自治である。以降の欧州は政治体制の如何にかかわらず、その国家統治の枠組みに都市、エスニック集団、領主それぞれの自治形態を自然にはらんでいた。古代ギリシャ都市国家の民主政治、ローマ帝国の自治都市、城塞が林立していた中世初期の封建王国、中世後期のイタリア都市共和国(ベニス、ジェノバ)、さらには「小共和国」構想に基づく北米の各州共和国や「一民族一国家」モデルに基づいた欧州の民族国家に至るまですべてそうである。

時代を問わず、自治は欧州人の制度史観と欧州人が共有する価値観を解明する重要なカギである。タキトゥスが見出した「蛮族の自由」、モンテスキューが盛んに称賛した蛮族の孤立分散的性格(71)、ギゾーが解明した、アングロ=サクソンの地方自治の伝統に由来する代議制精神(72)、さらにはトクヴィルが考察した、米国デモクラシーを支える地域自治(73)… すべてに銭穆の次の言葉があてはまる。「欧州史を見渡してみると、ギリシャ以来ずっと分裂と崩壊の連続で、それぞれが国をつくり互いに協力しなかったことがわかる。大きな敵や危機を前にしても相変わらず融和、団結することができなかった。……西洋の歴史は複雑なようにみえて実は単純である。複雑なのは表面だけで内実はそうではない。……西洋史でいうところのイギリス人、フランス人は、化学でいえば純物質に相当する。一方、中国史における中国人は、化学でいえばある種の混合物である」(74)

対照的に、中国は上層の構造がどのようなものであれ、国家統治の基盤は常に県・郷二層の末端行政権力だった(75)。ファイナーが言ったとおり中国は近代的な官僚機構の「発明者」である(76)。

秦漢帝国が最初に「大一統」中央集権郡県制国家を築いて以降、末端行政権力の構築は、中央が派遣し中央が管理する文官の体系に組み入れられていた。歴史上きわめて短期間の封建割拠時代があったとはいえ、「大一統」中央集権郡県制が主流をはずれたことはない。行政的支配権のない食邑制〔食邑は臣下に与えられた領地。紀元前2世紀以降、領主の支配権は形骸化〕や地方の官紳合作制〔郷紳(地方の実力者)と官僚が協力して地域を支配するありかた〕など、封建制度の亜種が残っていたにもかかわらず、これらの自治権は限定的で、早くから国家権力が社会の隅々にまで浸透し、欧州式の自治は中国に存在しなかった。

自治と中央集権はそのまま二つの文明ロジックである。

ローマの視点で秦漢帝国をみると、中央集権の弱点は挙足軽重、一地方の反乱が全国レベルの大動乱に拡大転化しやすい点にあると考えられる。それに比べてローマ帝国は、生じた反乱のすべてが局所的で(バガウダエの蜂起を除く)、これは自治の長所である。「漢帝国の存立を脅かした中国式の農民蜂起がローマで生じたことはない」〔ファイナー〕(77)

一方、秦漢帝国の視点でローマをみると、ローマ後の欧州がなぜ人種・宗教をめぐる対立を千年にもわたって延々と続けてこられたのか不思議に思える。4世紀から6世紀にかけての6度にわたるビザンツとペルシャの戦争、7世紀から11世紀にかけて400年続いたアラブとビザンツの戦争、8世紀から15世紀の800年間絶えることがなかったヒスパニアのキリスト教徒とムスリムの戦争、10世紀から13世紀にかけての9度の十字軍遠征、13世紀から15世紀のビザンツによるオスマン侵攻やスコットランドの対イングランド戦争、そして全欧州を巻き込んだ30年戦争〔1455年~1485年〕。民族と宗教が真の和解を見出した時期はわずか1世紀もない。「文治政治」では、中国が前近代の世界全体をリードしていたといっても過言ではない。「ローマの自治」の方が優れているというファイナーでも次のように認めざるを得なかった。「漢帝国は他の国や帝国(とくにローマ)と違い、軍事的栄光を軽蔑していた。軍国主義に衷心から反対していたのである。その特徴は『教化』である。中国人流にいえば『文』である。こうした宗教上の寛容と文明教化の唱導が帝国の理想と栄光を形づくっていた」(78)

ローマのパンテオン(中国新聞社

「小共同体」を好む西洋社会は、都市国家から封建自治へ、そこからさらに小共和国、米国の地域自治へと至り、最終的に個人の権利が何にも勝る自由主義へと変化していった。中国社会にも血縁集団、三老〔県や郷に置かれた住民教化担当の官吏〕や郷紳を中心にしたコミュニティー、各種民間結社など様々な「小共同体」があった。しかし、それらはいつでも「より大きな共同体」を目指していた。すなわち「修身・斉家・治国・平天下〔個人の修養、家族の秩序、国家統治、天下の安寧を連続的にとらえる〕」である。

ブライアン・ダウニング、チャールズ・ティリー、ウィリアム・マクニール、マイケル・マンなど多くの西洋の学者には、中世の分裂と反乱がかえって進歩をもたらしたという自負がある。近代以前に欧州で生じた一連の戦争が欧州の常備軍を、欧州の理性的官僚制度を、そして欧州近代民族国家と工業資本主義を生み出したとみるからだ(79)。曰く、この種の数百年続いた「低強度」で、一度で相手を壊滅するのが難しいような局地的紛争は、そのことが絶えず経験を総括し、技術の蓄積型発展を進める余地を敗れた側に与えた。封建社会の分裂的階級的性格は商業資本を生み出すのに有利で、独立した商業都市の出現をもたらした。その結果、資本主義への道がよりいっそう開かれた。こうした封建制度、弱小国家、多国間競争の体系は、欧州近代があらゆる「老いた文明」を乗り越える要因になったと。

これは暗に次の意味を含んでいる。極度に統一された中国には千年も続くような局地紛争や多元的競争システムがない。極度に集権的な中国には世襲貴族や商人が支配する自治都市がない。だから工業資本が生まれる余地がなかった。したがって「大一統」はかえって歴史の進歩の妨げになったと。しかし、プリミティブな資本主義の誕生と引き換えに千年にもわたる「戦乱地獄」と「民族宗教対立」に耐えることを望むかどうか、中国人に問えば大半の答えはNOだろう。春秋時代の中国は多くの国が相争う分封制の時代だった。秦がその流れに逆らって六国を統一したのは、また、「秦=暴政」という概念が世に蔓延するなかでそれでも漢が「秦制の継承」にこだわったのは、戦国300年間の大規模な戦争で「天下共に戦闘に苦しみ休まざるは侯王有るを以てするなり」が世の中の共通認識になっていたからに他ならない。中国はこの段階―封建制、分裂、戦乱の段階を経験していないのではなく、経験したうえでこれを放棄したのである。いわゆる「常備軍」も「理性的官僚制度」もすでに秦漢時代にはあった。欧州より1800年早い。中華文明の近代的転換に突き付けられた真の難題は、「大一統」の維持を土台にしつつ、いかにして自由と秩序を同時に実現するか、いかにして「大共同体」と「小共同体」それぞれの利点を兼ね備えるか、ということである。これは西洋の多元的自由主義より高い次元の目標である。

華夏と内陸アジア

西洋中心主義者は常にローマとフランクをモデルにして他の文明を理解する。例えばフランクの「複合型王権」である。これは、カール大帝は「フランク王兼ランゴバルド王」という部族の長がメインでローマ皇帝という身分は二の次に過ぎなかった、カールの帝国は多民族の連合体で皇帝の命令一つでイタリア、フランス、ドイツに分かれることが可能だった、というものである。そして、この種のモデルをそのまま中国にあてはめる学者がいる。清朝皇帝もまた複合型王権だったという米国の「新清史」学者がその例である。曰く、清朝皇帝は満州族の族長、漢族の皇帝、モンゴルの可汗〔ハーン〕、チベット仏教文殊菩薩の化身といった複数の身分・地位が一つになったものである。皇帝のこの「多重一体性」を唯一の頼みにして中原、東北、モンゴル、チベットの統一が保たれていたので、ひとたび朝廷が瓦解すると各々が自由勝手にふるまえるようになったと。これは満州・モンゴル・チベットと中原の統治システムを完全に無視している。清朝は東北でも柔軟なやり方で郡県制を施行し、中原でもいち早く満漢隔離政策を廃止した。部族政治も一時は存在したが、モンゴルの盟旗制度〔モンゴル諸部の伝統的支配関係を解体して盟と旗に再編〕や南方の改土帰流〔部族長的性格をもった土官・土司を廃止して統一的な地方行政に再編〕のように最終的には郡県制に移行していった。中国胡族の君主は自らを部族の長ではなく、なによりもまず中国皇帝と認識しており、胡漢の別なく中国人全体を統治する合法性を体現していたのである。

「レオ3世のカール大帝への授冠」1517年、ラファエロ・サンディ作

幾人かの西洋の学者は「文化的シンボル」と「自己同一性〔self identity〕」を用いて中国史を読み解こうとする。新疆、チベット、モンゴルおよび東北三省を「内陸アジア(inner Asia)」として他と区別し、北方エスニック集団が建てた北魏から遼・金・元・清にいたる王朝のなかに「内陸アジア」由来の文化的同一性を探し求め、しかも各王朝を「浸透王朝」と「征服王朝」に区分する。また彼らは、北方エスニック集団特有のいくつかの習俗、儀礼を根拠に、これらの王朝には内陸アジア的性格があると決めつける。例に挙げられるのは、北魏・高歓がおこなった代都旧制〔黒い獣毛で織った敷物を被った七人が帝を担ぎ、上天を拝んだのち群臣の拝賀を受ける、洛陽遷都以前の鮮卑式皇帝即位儀式〕、モンゴルが残したオルド〔行宮、モンゴル式の宮殿および宮殿習俗〕、清朝で盛んだった薩満祭祀〔「立桿大祭」といわれる大祭をはじめとする満族の宮廷祭祀〕などである。これは「儀礼」と「政道」の区別を曖昧にするものだ。中華文明の核心は儀礼、習俗、芸術、生活習慣ではなく、どのような制度を基本に政治がおこなわれているかにある。北方エスニック集団出身の天子が黒い獣毛のうえで即位しようが郊祭〔典礼化された皇帝祭祀〕で即位しようが関係ない。冠冕をつけようが辮髪を残そうが、薩満信仰だろうが仏教信仰だろうがどちらでもかまわない。分割支配ではなく儒・法「大一統」を実践してさえいれば、部族神権政治ではなく郡県文官制を運用してさえいれば、そして、エスニック集団毎に差異を設けるのではなくすべてを同じ民とみなしているならば、それはすなわち中国の天子である。

古代の場景を再現したろう人形、内モンゴル博物館。西暦386年、拓跋珪は大軍を率い盛楽に入城、ここを首都に北魏政権を建てた。(FOTOE)

高歓は鮮卑の旧礼で新皇帝を即位させたとはいえ、官僚体制と法体制の「漢化」を継続した。北斉の律令は隋唐に受け継がれ、官僚選抜試験の実施規模は南朝をはるかに凌駕していた。

中央アジア・西域〔今の新疆〕に逃れた遼の耶律大石はカラキタイ〔喀喇契丹、西遼〕を建て、自らを「グル・ハン」と称した。当時の中央アジアでは「イクター」とよばれる分封制がおこなわれていたが(80)、耶律大石はこれを廃止し、中原王朝の制度を導入した。行政は中央集権、直轄地では文官制(シャフナ制)(81)を実施し、軍の指揮権を中央に集中(82)、漢字を公用文字にした(83)。税は各戸別に1ディナール〔5ルーブル相当の金貨1枚〕を徴収するのみで、バルトリドによればこれは中国版「十分の一税」である。このカラキタイという名称から、ロシアと中央アジア地域では中国のことをいまでも「キタイ〔契丹、Китай〕」という。

元朝は中央集権制で、政務全般を統括する中書省を中央に置き、地方には「行中書省」を設置した。文化的には各宗教がパラレルに存在したが、政治的にはやはり儒・法を統治理念にした国だった。他の3大ハン国〔フレグ、ジョチ、チャガタイ〕はすべて分封制だったが、1271年にフビライが『易経』の「大哉乾元」からとって国号を「大元」と改めて以降は中原王朝に変化した。元朝の歴代皇帝は例外なく儒教を学び、孔子を尊んだ。そうなれば漢式の官僚制度は自ずと整備されていく。尊称、廟号〔皇帝死後の廟室の称号〕、諡号〔おくりな〕といった漢式の名称を用い、都城、宮殿、朝儀、印璽〔天子と国家の印章〕、避諱といった漢式の儀式・制度で周囲を固めた(84)。

清代の政治制度構築については言うまでもないだろう。理論的資源、制度設計のすべてが中華文明に由来している(85)。

草原エスニック集団が建てた王朝の習俗や儀式は何の説明にもならない。国家の性格は主にその統治体系によって変わる。カール大帝が「神聖ローマ」の帝冠を受けたからといってカロリング朝が「ローマ」になったわけではない。フランクの統治体系がローマとは別物だからである。逆に、剃髪易服〔髪を剃り服を変える〕を強要したとしても清朝は当然ながら中国である。なぜならその統治体系が中国だからだ。

「華夏」と「内陸アジア」は一貫して一方が他方を包含する関係にあった。遡れば夏・商〔殷〕・周三代のなかにも「内陸アジア」はあった。陝西省の石峁遺跡からはどうみてもユーラシア草原風の石像や石の城壁が出土している。殷墟の墳墓からは草原エスニック集団スタイルの影響を受けた青銅器が大量に発掘されている(86)。甘粛省礼県の秦公墓は「秦人」のなかに数多くの羌族、氐族が混じっていたことをはっきりと物語っている。時代を下って、「最後の漢族王朝」といわれる明朝だが、実際にはモンゴルの名残を数多く内に含んでいた。朱元璋の詔書は擬蒙漢語〔蒙文直訳体〕風の文体で書かれている。明代皇帝もまた、草原の可汗、チベットの文殊菩薩と転輪聖王〔の化身〕、イスラムの庇護者といったいくつもの身分・地位を兼ねていた(87)。「明代漢服」さえも元風である(88)。

2015年、前漢時代の海昏侯(廃帝・劉賀)の墓から黄金の副葬品や身をよじる羊の紋様をあしらった象眼細工の青銅の馬用装飾品が大量に出土した。それらはすべて匈奴文化の影響を受けたものである(89)。一方、2019年にモンゴルのゴルモド匈奴墓から銀に金メッキを施した竜形の器物が出土しているが、この竜形は典型的な「前漢型」である。長城外の「弓を引く民」と長城内の「冠帯の室」、両者ははたして見知らぬ他者だったのか、それとも文明を共有する近親者だったのか。

人種、宗教、習俗、神話で世界を区分するのが西洋文明の習わしである。歴史的にみて、近代的な文官制度の出現が遅く、政治が社会を統合する伝統にも乏しいからだ。近年の西洋は「文化的シンボル」と「自己同一性」を強調するが、同時にそれは「部族政治〔Tribal Politics〕」の分断を自らに招く結果になっている。フランシス・フクヤマは「民主社会はますます狭隘化するアイデンティティによって粉々に砕かれようとしている。この道の先には国家の崩壊があるのみであり、最後は失敗で終わるだろう」という。フクヤマが提唱するのはある種の「信条式ナショナル・アイデンティティ」だ。「この種のアイデンティティは、個人的特質、人生経験、歴史的紐帯、宗教的信仰の共通性のうえに築かれるのではなく、核心的な価値観と信念を軸に形成されるものである。国家の根本理念に賛同するよう市民に促し、同時に公共政策を使ってニュー・カマーを意識的に帰属化することがこの理念の目的である」(90)

華夷の別と中華の包括性

華夷の別は古くから頻繁に取り沙汰されてきた。それはいまでも「中国とは何か」という議論の引き金になっている。しかし、多くの論者は史書から「片言隻句」を借りてきて論争しているだけで、歴史をトータルにとらえていない。

「華夷の別」の最初は『春秋公羊伝』にみえる。「南夷与北狄交、中国不絶若線〔南夷と北狄とが中国に接近したが、中国は1本の線のように曲らず屈しなかった〕」(91)。「北狄」とは斉・桓公の尊王攘夷〔周王を尊び、異民族を撃つ〕の、最初の標的となった「白狄」を指し、「南夷」とは楚を指す。しかし戦国時代、とりわけ秦漢の時代になると、かつての「夏」と「夷」はともに「編戸斉民」で統合され、世の中すべてに王法〔皇帝の定めた法〕が行き渡り、エスニック集団の区別がなくなった。

2度目の「華夷の別」のピークは南北朝である。南北双方が相手を夷狄と称して正統を争った。唐代になってそれは下火になっている。唐・太宗は「古より帝王はみな中華を重視し、夷狄を蔑視してきたが、わたしだけがこれらを一視同仁として扱える」と言い、朝廷内外に各族のエリートを配した。後の「安史の乱」は藩鎮〔節度使〕権力の肥大化であって民族問題とは関係ない。

3度目のピークは宋代である。宋朝は経済・文化の発展を極めたが統一力がなかった。遼、金、西夏の軍事的脅威に直面(92)した宋朝は、無理やり自己を正統化して高低を区別するしかなく、真宗は泰山での封禅の儀を自作自演〔天書の降下など様々な演出がおこなわれた〕、士大夫もまた「華夷の別」を盛んに論じた(93)。しかし、実際は遼・金・夏いずれも漢文明を吸収しており、南北ともに同じ言葉を話していた。元代になると「華夷の別」は再び下火になった。いわゆる「四等人制〔モンゴル人、色目人、漢人、南人のピラミッド型階層統治〕」についてはいまでも疑義がある。

4度目のピークは明の中期である。明初、朱元璋は反元復漢をスローガンに掲げたが、ひとたび国が安定すると元朝が中原に入って統治者となったのは「天命」であると認め、天下の統一を鼓吹した。また、「華夷に別なく、姓氏は異なっても平等に慈しむ」とし、フビライを三皇五帝、両漢・唐・宋の開祖とともに歴代帝王廟に祀った。しかし、土木の変で英宗が捕虜になると、明朝の自尊心は大いに傷つき、フビライを帝王廟から追い出した。

5度目のピークは「明末清初」である。ただ、康熙帝の孔子崇拝以降、清朝の歴代皇帝は漢文明の普及に力を入れ、「華夷の別」も再び影をひそめることになった。

華夷の弁別基準は統治理念と制度である。したがって、中華の道統、法統、政統を引き継ぎさえすれば天命を得ることができる。なぜなら、天下は何をも排除しないからである。「華夷の別」の強弱は国家の統一と分裂に左右される。おしなべて、分裂の世には各エスニック集団が互いに相手を「夷狄」といい、統一王朝になると為政者は「華夷の別」解消に尽力した。

ローマもかつてはそうだった。

ローマ帝国全盛期の哲学はコスモポリタニズムである。タキトゥスがゲルマン人の民主、尚武、天性の純朴さなどを「優れた習俗習慣」と称賛したように、4世紀までのローマの歴史家は「蛮族」への賛辞を惜しまなかった。マクシミヌス・トラクス、ピリップス・アラブス、クラウディウス2世など、帝国中期以降の皇帝には「蛮族の血筋」をひく者が多い。ガイナス、サルス、バクリウス、アエテゥウス、オヴィダなど「蛮族」出身の名将も数多くいる。西ゴートの侵入と戦ったローマの名将スティリコもヴァンダル人である。しかし、4世紀を境に帝国は分裂し、ローマ人は蛮族への恨みを募らせていった(94)。6世紀のある歴史家は帝国衰亡の元凶としてコンスタンティヌス帝を槍玉にあげるが、その理由は大量の蛮族を引き入れたからだとしている。他方、蛮族の側もまた「英雄には自身の来処がある」ことを証明しようとした。テオドリックは晩年にポエティウスの裏切りにあうと、直ちに宮廷史家に「ゴート人史」の作成を命じ、17代にわたる一族の輝かしい歴史を強調した(95)。

共通点と相違点を内に有しているのはどの文明も同じである。共同体が分裂するとき、政治の中心にある各々は、自他の境界を定めて自身の権力を強化するべく必ず相違点を誇張し、共通点を軽視し、分裂を永久に固定化してしまう。共通の祖先、言語、記憶、信仰を持っていたとしても、政治に多基軸的な争いがある限り必ずこうした悲劇が生まれる。宗派の分裂、エスニック集団の崩壊はすべてこの類だ。

超大規模の共同体にとっては、文化が多元的に存在できるとしたらその土台はやはり政治の統一である。政治的一体性が強固なほど各々の文化が思う存分その個性を伸ばすことができる。逆に政治的一体性が脆弱なほど文化は各々対立しあい、最終的に多元性は消滅する。一体と多元は二律背反的関係にはない。強弱を共にする関係である。一体と多元のこの弁証法を理解しなければ、世界と自らは分裂と混乱の淵に入り込んでしまうだろう。

(71)モンテスキュー著、張雁深訳『論法的精神』商務印書館、1963年、P241。

(72)フランソワ・ギゾー著、張清津訳『欧州代議制政府的歴史起源』復旦大学出版社、2008年、P240。

(73)トクヴィルの指摘は以下の通り。民主国家が自由を保てるのは法制度ととくに習俗〔mœurs〕のおかげである。イングランドの子孫である米国人の法制度と習俗は、彼らが絶大な力をもつに至った特殊要因であり決定的要素である。そして、米国人の習俗で最も大切なものが地域自治である。「地域自治制度は多くの専制を抑制すると同時に、人々に自由を好む習慣を育み、自由を行使する術を教える」。トクヴィル著、董果良訳『論美国的民主』商務印書館、2004年、P356、P332。

(74)銭穆『中国歴史研究法』九州出版社、2012年、P113。

(75)漢代の地方行政機構は郡と県の2層のみだったとはいえ、県以下の末端支配機構が非常に整っていた。郡の長官〔太守〕と県の長官〔県令〕はともに中央から派遣された。県管轄地域はさらに複数の郷と里に分かれ、「三老」が統轄していたが、民の教化を司るのみで社会行政を担っていたわけではない。実際の行政実務はすべて嗇夫、有秩、游徼がおこなっていた。嗇夫と有秩は徴税、労役差配、訴訟の担当、游徼は事実上の派出所所長〔公安担当〕である。郷のもとには亭長が管轄する亭が置かれ、亭長は法律と秩序の維持や宿駅の管理にあたり、警察権ももっていた。亭のもとには里が置かれ里正が管理していた。ファイナー著、馬百亮、王震訳『統治史(巻一):古代的王権和帝国』華東師範大学出版社、2010年、P332。

(76)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統治史(巻一):古代的王権和帝国』華東師範大学出版社、2010年、P71~P72。

(77)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統治史(巻一):古代的王権和帝国』華東師範大学出版社、2010年、P348。

(78)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統治史(巻一):古代的王権和帝国』華東師範大学出版社、2010年、P350。

(79)例えば、英仏両国は百年戦争(1337年~1453年)遂行下で国王直属の常備軍と直接税の仕組みを同時に生み出した。しかし、貴族、ローマ教皇庁、都市中産階級からの圧力が重なり、それが制約となって欧州諸国は中国式発展を可能にする国力をついに得ることができなかった。趙鼎新「中国大一統的歴史根源」『文化縦横』2009年第6期。

(80)バルトリド著、張麗訳『中亜歴史:上冊』蘭州大学出版社、2013年、P138。

(81)カラキタイの直轄領地にはハーン権力を代行するシャフナが派遣された。これは、地方の安定を維持する社会管理制度である。シャフナは地方長官だが、一定の軍事力を有する地方行政組織そのものを指すこともあり、地方政務と租税徴収にあたっていた。こうした官僚制度の構築経緯は『遼史・西遼始末』に明確な記述があり、北庭都護府に7州・18部族の王を集めた大会の後に耶律大石が自らの官僚システムをつくったという。「六院司」「招討使」「枢密使」などの大臣の職名から、カラキタイの官僚制度は遼の北面官・南面官制度を踏襲したものであり、中央集権と属国制度を引き継いだものであることがわかる。

(82)バルトリド著、張麗訳『中亜歴史:上冊』蘭州大学出版社、2013年、P49。

(83)近年、キルギス共和国でカラキタイの銅銭が4枚発掘されているが、形状は唐銭に酷似しており、「続興元宝」と漢字が刻印されている。

(84)張帆「論蒙元王朝的〝家天下〟政治特征」『北大史学』2001年第1期、P50~P57。

(85)「三代の治」復興をかかげ、曲阜孔子廟行幸で三跪九叩頭の礼をおこない(康熙帝)、儒教経典を積極的に学習、経書解釈の権威を手中に収めた。華夷の別の再構築という点では、徳を有する者が天下の主君になること、「人種」ではなく「礼儀」による弁別を強調した。南巡の回数も多く(康熙帝、乾隆帝)、明の太祖を供養するため明孝陵で三跪九叩頭の大礼をおこない(康熙帝)、江南士大夫を懐柔した。中央では孝道を唱導し、地方では郷約〔郷村秩序維持のための規約と組織〕や宗族組織の制度化にむけた再編を進めた。楊念群『何処是〝江南〟』三聯書店、2010年。

(86)典型的な北方草原青銅器としては、環首刀、獣首刀、鈴首刀、鈴首剣、有銎斧、弓形器、車馬器などがある。何毓霊「殷墟〝外来文化因素〟研究」『中原文物』2020年第2期。

(87)鐘焓「簡析明帝国的内亜性:以与清朝的類比為中心」『中国史研究動態』2016年第5期。

(88)羅瑋「明代的蒙元服飾遺存初探」『首都師範大学学報(社会科学版)』2010年第2期。

(89)馬用の装飾品である「当盧〔馬の頭に装着する面〕」に、身をよじって遠くをみつめる独角羊が描かれている。これは典型的なユーラシアステップ風デザインで、匈奴の墓から出土した馬用の装飾品に酷似している。

(90)Francis Fukuyama「Against Identity Politics: The New Tribalism and the Crisis of Democracy」『Foreign Affairs』2018年Vol・97、No・5。

(91)『春秋公羊伝・僖公四年』

(92)979年、宋の太宗は北伐の際に「若北朝不援、和約如旧、不然則戦」と言った。『遼史・景宗紀下』

(93)程頤に「聖人恐人之入夷狄也,故《春秋》之法極謹厳」という言葉がある。また、陸遊、辛棄疾を代表とする南宋の詩詞には「胡虜」「腥羶」の表現で北方を忌み嫌うものが多い。邱濬『大学衍義補』巻75。

(94)「放火、殺人、略奪……ゴート人はいたる所で狼藉を働いた。人と見れば老若男女の別なく殺し、乳飲み子さえ容赦しなかった。女たちは目の前で夫を殺されたあと拉致された。少年と成年男子はなすすべなく両親の死体から引き離され、無理やり連行された。老人の多くは両手を縛られて異郷に流された。灰燼に帰した故郷をみるその目からは泉の如く涙があふれた。彼らは命こそとりとめたものの財産と女を失ったわが身を嘆いた」。ピーター・ヘザー著、向俊訳『羅馬帝国的隕落』中信出版社、2016年、P200。

(95)ピーター・ヘザー著、馬百亮訳『羅馬的復辟』中信出版社、2020年、P5。

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(3)中西比較」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。
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