人民網日本語版 2022年2月28日(月) 13時40分
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郎佳子彧さんのアトリエでは3人が働いており、彼らの普段の仕事内容はバラエティーに富んでいながらシンプルだ。
入り口から近い位置に置かれた棚の上には「麺人郎」と書かれた額縁が飾られており、その棚の中には小麦粉粘土細工の作品とこれまで手にした賞状が秩序よく陳列されている。そして棚の前には学習机ほどのサイズの作業台が置かれており、その上には人形細工を作るための道具がきちんと並べられていた。環球人物が伝えた。
これが郎佳子彧さんのアトリエだ。現在このアトリエでは3人が働いており、彼らの普段の仕事内容はバラエティーに富んでいながらシンプルだ。郎佳子彧さんは作品作りを担当しており、その制作プロセスをカメラの前で見せていく。他の2人は、1人が動画の編集と作成を、もう1人が企画と運営を担当している。
それ以外の時間、彼らの暮らしぶりはほとんどの「95後(1995~1999年生まれ)」と変わらない。ゲームに興じ、バスケットボールを楽しみ、食べて、飲んで、といった具合だ。もし誰かが特に言い出したりしなければ、彼らの伝統文化との関わりについて気付く人はまずいないだろう。100年前、貧しい家に生まれた郎紹安さんは、民間工芸職人の師匠に弟子入りして小麦粉を使った人形である「麺人」作りを学び、数十年後にはその世界では知られた大家となり、「麺人郎」(「麺人」作りの郎)の呼び名を与えられた。そして現在、その技は孫の郎佳子彧さんへと伝えられている。
■「麺人郎」を世界の人に知ってもらいたい
郎佳子彧さんの祖父、郎紹安さんは12歳の時、伝統工芸である「麺人」作りに並々ならぬ興味を抱き、家族の許しを得て、正式に弟子入りして学んだ。その影響で、郎佳子彧さんの父親の郎志春さんもまた幼い頃から熟練した職人の技を身につけた。
郎佳子彧さんも幼い頃から祖父の物語を聞いて育ち、自然と「麺人」作りに対して親近感を抱くようになったという。
3、4歳になると、郎佳子彧さんはよく小さな腰掛を運んできては父親のそばに座り、父親が小麦粉粘土で人形を作る様子にじっと見入り、そして見始めると1時間でも2時間でも見続けていたという。4、5歳になると、父親の指導を受けながら、正式に「麺人」作りを学び始めた。ただひたすら練習を繰り返す日々だったが、つまらないと感じることはなかった。そして郎家に伝わるこの技は彼にとってプレッシャーを与えるのではなく、むしろ数多くの楽しみをもたらしてくれた。
郎佳子彧さんが6歳の時、父親は座った姿勢の子供の人形を作らせた。2時間半後、郎佳子彧さんは自分が作り上げた人形の不格好さに怒りを覚え、丸めてつぶしてしまおうとした。しかし父親はそんな郎佳子彧さんを止めた。そして、「父はよくできているから、きちんと残しておきなさいと言ってくれた」と郎佳子彧さんは振り返る。
こうした家族の薫陶を受けた郎佳子彧さんは、知らず知らずのうちに一種の使命感を抱くようになったという。そして小学校2年生の時に、授業で先生が「挙世聞名(世界の人が知っている)」という四字熟語を使って例文を作るように言った時、普段はあまり積極的ではなかった郎佳子彧さんは手をあげ続け、ついに先生から指名され、抱いていた夢を発表するチャンスを手にした。そして郎佳子彧さんは、「僕は『麺人郎』を世界の人に知ってもらいたい」と発表したが、クラスはシーンと静まり返ってしまった。誰も「麺人郎」とは何なのか知らなかったからだ。先生はその場の雰囲気を和らげるため、郎佳子彧さんに「麺人郎」とは何なのか説明するように言ったという。しかし郎佳子彧さんが「麺人郎」の説明を終えても、クラスはまだシーンと静まり返ったままだった。この時のことを郎佳子彧さんはいまだに忘れられないという。
「あの時はとてもつらかった。でも今、思い起こすとそれほどつらいとは感じなくなった。その時に『麺人郎』を世界の人に知ってもらうという使命感が生まれたんだと思う」と郎佳子彧さん。
2010年、郎佳子彧さんと父親は共に北京市中国文学芸術界聯合会の成立60周年記念イベントに参加した。そしてその舞台で「寿老人」を作りあげた郎佳子彧さんは、称賛を受けただけでなく、北京市民間文芸家協会に特別に入会を認められ、当時最年少の会員となった。
現在、郎佳子彧さんは中国の国家級無形文化遺産である北京の「麺人郎」の第三代伝承人となっている。「自分はアーティストだと思いますか?」という記者からの質問に、郎佳子彧さんは迷うことなく、「思うかどうかではなく、僕はアーティスト」と答えた。
■やりたいことはすぐに実行
「麺人」作りの道を歩み続けてきた郎佳子彧さんにも全く悩みが無かったという訳ではない。正確を期するなら、郎佳子彧さんの最初の職業選択は「麺人」作りではなかった。
「僕が小さい頃、伝統手工芸というのはダサいものと思う人がほとんどだった」と振り返る。高校に進学したばかりの頃、自己紹介でクラスメートが芸術の才をアピールする際、バレエやピアノを習っていると紹介する中、郎佳子彧さんだけが「僕は『麺人』作りをやってます」と発言。そしてクラスメートたちの反応は、小学校の時同様、何のことやらわからないというものだった。
また、材料となる小麦粉は芸術として発揮できる可能性が限られているのではないかという考えにとらわれた時期もあった。「作品も小さく、表現したい思いを上手く誇張して表現することもできない」という思いから、ついには「一体どうやって『麺人』作りを学んでいけばいいのだろうか」というところまで思いつめたという。
その転機は大学在学中に訪れた。ある芸術展を見に行った際、パンを使ってさまざまな形の手を作りだし、壁いっぱいに貼り付けるというアーティストの作品を目にした。パンが乾燥してひび割れた様子がちょうど手の皺を表現しており、独特の美しさが表現されていた。
「その時突然、いわゆる材料の限界というのは、実は自分自身の才能が不足しているからで、用いる材料の最大の欠点は、実は最大の長所となる可能性があるんじゃないかと思った」と郎佳子彧さん。その時から「麺人」作りの芸術的な表現力に対する疑問を抱くことはなくなり、むしろそれを最高の域まで高めようと努力し始めた。
勉学の傍ら、郎佳子彧さんは個人のソーシャルメディアで発信するようになった。動画撮影だけでなく、一部のオフラインのイベントにも参加して、「麺人」作りの芸術についてPRし続けた。大学院2年の時に将来の職業の選択について考え始めたが、起業するかどうかという点で結局決心することができなかった。
そして2020年年初のある夜、郎佳子彧さんのスマホは友人らから送られてきたメッセージで埋め尽くされた。それは彼の幼いころからの憧れのスターだったNBAの元プロバスケットボールプレーヤー、コービー・ブライアントさんがヘリコプターの墜落事故で亡くなったというニュースだった。
郎佳子彧さんは、「その時ようやく実感した。明日にはどうなるかわからないのならば、やりたいと思ったことはすぐに実行に移すべきだ、と。そして、起業した」とした。
■孤独さと快適さと
郎佳子彧さんの仕事は朝10時から夜12時まで。忙しい時には食事の時間すら取れないほどだという。一番つらかった時期、アトリエのメンバーは貯金を切り崩しながら頑張るしかなかった。
郎佳子彧さんは「麺人」作りに対して複雑な思いを抱いている。「時間の中から抜け出したようなリラックスした感覚を得ることができる」とし、「麺人」作りで自分を表現する過程を楽しみ、「大勢になびかない」ことで生じる楽しさを享受している。そして、「この点は、僕がとても魅力を感じる点であり、僕自身も得意な点と言えるだろう。それに客観的に見ても、伝統文化は現在復活しつつある」とする。
「無形文化財」を保護する必要があるのは、それが希少だからだ。以前、郎佳子彧さんに、「ニッチな職業というのはどういう感じですか?」と質問した人がいたという。その質問に対する郎佳子彧さんの答えは、「自分はどこまでも続く大海の中で、小舟のように漂っているような存在。空母の上では味わえない快適さもあるけれど、孤独も感じる。でも時には、その孤独感は一種の栄誉だとも言える」というものだった。しかしその一方で、郎佳子彧さんは「そんな小舟がたくさん現れることを願っている。いつの日かそんな小舟が海一面を覆い尽くして欲しい」とその思いを語った。(提供/人民網日本語版・編集/TG)
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