アジアの窓 2022年3月4日(金) 7時20分
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商品先物市場と言ってもいったいどのくらいの人が知っているのだろうか。写真は大連商品交易所。
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日本の商品先物市場が脳死状態に陥っている。2003年をピークに縮小の一途をたどり、とりわけシンボル的存在だったコメ先物が上場廃止に追い込まれたことの影響は大きい。市場経済のルーツであり世界からリスペクトされてきた堂島コメ先物市場が消滅した結果、過去最高の繁栄を謳歌する米欧中市場とは裏腹に、日本は投資家による幅広い運用機会と透明性のある相場形成の場を失った格好だ。
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◆とにかくイメージが悪かった
商品先物市場と言ってもいったいどのくらいの人が知っているのだろうか。私もかつて会社の中に「商況部」というセクションがあって、商品相場を取材していることは知っていたが、「現物相場」の取材は鉄や卵などだけで取材の中心が「先物相場」であることは知らなかった。それも取材対象は商品先物ばかりで金融先物は対象外だった。この違和感は部を離れてからも長いこと拭えなかった。
日本では昔から「商品先物」への印象は良くない。イメージを悪くした責任の一端は既に鬼籍に入った作家の梶山季之氏の小説『赤いダイヤ』にあるかもしれない。第二次世界大戦後の1953年は小豆(あずき)の買い占めをめぐる相場師同士の華々しい仕手戦が展開された。主に和菓子の原料としてなくてはならない小豆相場が高騰し、社会的にも大きな関心を呼んだ。「小豆=相場=大損=怖い」のイメージが定着した。この状態は2000年頃まで続いた。
日本の商品先物市場がなかなか大きくなれなかったのは市場参加者の大半が一般個人投資家、しかも取引会社の外務員からの勧誘で受け身的に取引を開始するケースが多く、トラブルまみれだったこともある。産業界の中でも“先物アレルギー”が容易に消えず、コメ流通の約4割を握る農業協同組合(JA)も市場に参加せず、一貫して否定的な姿勢を貫いたことが響いた。
◆いつの間にか「デリバティブ市場」
商品先物市場は「公正で透明な価格形成の場」であり、「価格変動をヘッジする場」として経済的機能も備えた国が認めた公認市場である。
先物取引の契約はいまの時点で結ぶものの、商品の受け渡しや決済は将来のある定めた日に行う差金決済が中心だ。将来の期日までずっと現物を持ち続け、実際に受け渡しが行われるケースはめったにない。農産物などの商品、株式などの有価証券、さらには指数などの金融商品を売買する。さらに「原資産」を売買する先物に対し、「原資産を買う・売る権利」を売買するオプション取引もあり、最近ではデリバティブ(金融派生商品)取引という呼び名が定着している。
デリバティブ取引という響きの良い名前が付いているが、取引の中身は商品先物・オプションであり、金融先物・オプションなのだ。「デリバティブ」というカタカナ語になれば、何となく分かったような感じになるから不思議である。
◆商品取引のメッカ「蛎殻町」
私が商品先物業界を担当したのは1995年から2004年まで9年間。まだデリバティブという言葉もなく、もちろん「ウクライナ戦争」もなく、概ね平和でのんびりした時代だった。入社以来、外国経済畑が長くロンドン支局も経験し、社内では一応「国際派」で通っていたはずだったのに、時の編集局長からの鶴の一声で先物業界に放り込まれた。35年の記者生活の中で9年は結構長い。
最初は相場担当者が常駐する記者クラブのある取引所が拠点だった。安産祈祷をするめでたい人たちの集まる水天宮を同じ町内に抱える「日本橋蛎殻町(にほんばしかきがらちょう)」である。株式取引で有名な日本橋兜町(にほんばしかぶとちょう)から日本橋川にかかる鎧橋(よろいばし)を越えると、そこは商品取引のメッカの日本橋小網町や日本橋蛎殻町に通じる。
蛎殻町には農水省傘下の東京穀物商品取引所があった。さらにそこから歩いて10分ほどの日本橋掘留町には東京工業品取引所が立地していた。「金銭トラブルばかりが多く、品性下劣な投機家が集まる地域」と外から揶揄(やゆ)されながら、ほどよく小金が舞い人が群がった。周辺には先物取引会社なども集中し、10月になると宝田恵比寿神社(日本橋本町)界隈で江戸時代から続く恵比寿講の「べったら市」が毎年開かれた。うまい飲み屋やおいしい料理屋が軒を並べた日本橋の一画は何とも風情があって、別世界からくる壮年記者の鼻をくすぐった。今では懐かしい思い出だ。
◆ようやく誕生した総合取引所
あれから18年。日本の商品先物業界も変わった。2004年当時、7取引所だった日本の商品取引所も紆余曲折を経て20年7月に総合取引所が誕生した。日本取引所グループ(JPX)が傘下の東京商品取引所から貴金属やゴム、農産物の各市場を大阪商品取引所に移管し、株式をはじめ証券と金などの商品先物を一体的に取り扱う体制を整えた。一方で東商取は原油先物、石油製品先物および電力先物を上場するとともに液化天然ガス(LNG)先物の上場を準備中だ。
それでも第一次安倍晋三政権下の2007年に総合取引所の構想が打ち出されてから13年もたっていた。株式や金融先物は金融庁、商品先物も農産物が農林水産省、石油や金属は経済産業省と分かれていた。「縦割り行政」が響いていたからで、官僚にとって天下りポストが減ることは辛いことであることを知った。
ただ日本が所轄官庁の調整を13年間も続けているうちに商品市場の売買高は細った。東商取に残された原油などエネルギー市場も含めたJPX全体の商品先物取引の1日当たり平均出来高(移管後の20年8月から21年6月まで)は7万7746枚と、前年同期に比べ11.2%減少した。商品先物の出来高は2004年がピークで、その後一貫して長期縮小傾向が続いた。
◆世界ベスト10に中国の3取引所
日本の長期低迷を尻目に、世界のデリバティブ市場は急拡大が続いている。先物業協会(FIA、本部=米ワシントン)によると、2021年の世界の先物・オプション(デリバティブ)市場の出来高は625億8000万枚と前年比33.7%増加した。4年連続して過去最高記録を更新した。オプション取引が56.6%増の333億1000万枚と伸びをけん引した。
取引所別順位をみると、1位はインド国立証券取引所、2位はブラジルのB3(サンパウロ証券取引所+ブラジルマーカンタイル&先物取引所)、3位は米CMEグループ、4位は電子取引に特化した米インタ-コンチネンタル取引所(ICE)が占めた。ICEは英国にあった国際石油取引所を買収し、北海ブレント原油の先物を「ICEブレント先物」として売買している。5位は米ナスダックグループ、6位米シカゴ・オプション取引所を運営するCBOEホールディングスだ。
こうした中で7位から9位までを占めたのは中国である。7位が鄭州商品取引所、8位は上海先物取引所、9位大連商品取引所だった。ちなみに10位は韓国取引所だ。日本の大阪取引所と東京商品取引所を合わせた日本取引所グループ(JPX)は19位と先頭グループからかなり後塵を拝している。デリバティブの総合取引所を名乗る東京金融取引所は28位にとどまっている。
◆弟格だった中国にも抜かれる
FIAによると、2003年時点の世界の商品先物取引所の出来高は1位がニューヨーク商業取引所(NYMEX)、2位は東京工業品取引所、3位が大連商品交易所だった。NYMEXはCMEに、東工取はJPXに飲み込まれた。日本はどう考えても商品先物では先進国だったが、金融先物を含んだ欧米諸国の合従連衡はすさまじく、21年には日本の舎弟格だった中国にも抜かれた。
鄭州商取は農産物(ジャポニカ米・小麦などの先物)、非農産物(板ガラス、フェロシリコン、尿素などの先物)、それにオプションを上場。大連商取は農産物(ジャポニカ米、トウモロコシ、大豆、大豆ミール、大豆油、コーンスターチなどの先物)や工業製品(コークス、コークス用炭、鉄鉱石などの先物やオプション)などを売買している。上海先物取引所は金属、エネルギーなどの先物を上場しているほか、傘下に海外投資家に門戸を開いている上海国際エネルギー取引所(INE)を持っている。
気になるのは鄭州に続いて大連でもジャポニカ米が上場されたこと。中国で米の生産量が多いのはインディカ米だが、近年ジャポニカ米の人気が高まり、黒竜江省や江蘇省、遼寧省などを中心に5000万トンも生産されているという。このままでは中国の市場で日本のコメ価格も決まるのではないかと懸念も台頭していた。
◆堂島は先物取引の聖地だったが・・・
堂島取引所は1730年(享保15)、江戸幕府が世界で初めて先物取引を認めた「堂島米会所」の今の姿である。堂島米会所は現物のコメを有価証券化した「正米(しょうまい)市場」と、代表的な銘柄を帳簿上で先物取引する「帳合米(ちょうあいまい)市場」で構成され、現在のデリバティブ取引所が持つ会員制度や精算機能なども整えられ、当時としては画期的な取引所だった。「1848年にシカゴ商品取引所(CBOT)が設立され、シカゴで先物取引が始まる100年以上も前のことだった。
30年以上にわたってCMEのトップを務め、同取引所を世界的な先物取引所に育てた「金融先物市場の父」を称されるレオ・メラメド氏でさえ「堂島こそ先物市場の生まれ故郷」だとインタビューした私に話していた。日本の外交官・杉原千畝(すぎはら・ちうね)氏の「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害から逃れ、日本経由で米国にわたった人物だ。彼にとっても、世界にとっても「Dojima」は先物の聖地でもあったのだ。
しかし農水省は21年8月6日、大阪堂島商品取引所(当時)から出されていたコメ先物取引の本上場申請について、「不認可」を決めた。コメ先物は期限付きで試験的に取引されており、堂島商取はこの決定を受け試験上場を打ち切った。これに伴いコメ先物は2022年6月以降、同取引所から姿を消すことになる。
◆日本のオウンゴール
農水省は「不認可」を決めた理由について「参加者の広がりが不十分だ」と指摘した。堂島商取は売買高が前回の試験期間の2.8倍に増えたと主張。取引への参加者数は172から175となり、うち生産者も62から66になったと訴えたが、農水省の決定が覆ることはなかった。JAの反対に加えて、自民党の農林・食料戦略調査会なども事実上異を唱えたことが決定打となった。「政治判断」と思わざるを得ない。
コメ取引は先物取引のシンボル。一般人とは縁のない世界だとしても主食のコメは日本人の精神的故郷みたいなものである。その本丸が主務官庁の農水省によって拒絶されたことで、日本のコメ価格は漂流することになる。商社などは農産物はシカゴ市場、原油はニューヨーク市場などでヘッジしている。日本の市場を使わないだけだ。
我々は先物価格が現物価格を動かしている時代に生きている。コメ価格の指標を決める場を失ったことは日本がみすみすオウンゴールを決めたことにもつながる。これでコメに関する日本の価格決定権は事実上なくなった。これからは中国の鄭州商取や大連商取がコメの先物相場を決めることになる。日本の悲しい現実を中国はさぞ笑っていることだろう。
■著者プロフィール:長澤孝昭「アジアの窓」顧問
元時事通信社ロンドン特派員、元商品経済部長。日本商品先物取引協会理事。時事総合研究所客員研究員。
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中村悦二
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2022/3/1
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2022/2/27
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