日本は開催国として金メダルを一定数獲得しなきゃならない。そこで、御家芸柔道を競技種目として採用するように IOC に働きかけ、男子柔道は1960年ローマでの IOC 総会で、4年後の東京大会で実施することになりました。しかしそれだけではメダル数で不安だったのでしょう。そこで目を付けたのがバレー。とりわけ女子バレー。というのもあの大松博文監督が率いるニチボー貝塚が、1960年バレーボール世界大会(ブラジル)で、決勝まで進んだものの、優勝はソ連。しかしかなりの実力がついてきた。1961年大松博文チームは欧州遠征をすると、各国のナショナルチームを一企業チームニチボー貝塚が次々と撃破、24連勝とか。この辺りから「東洋の魔女」となる。
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