紅茶が英語で「ブラック・ティー」と呼ばれるのはなぜか―専門家が本来の「黒茶」を紹介

中国新聞社    2022年11月5日(土) 22時0分

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英語で紅茶を「ブラック・ティー」と呼ぶのはなぜなのか。湖南省茶業協会の蒋躍登常務副会長は、本来の「黒茶」や、茶葉を輸送した「ティー・ロード」を説明した。写真は湖南省安化県の中国黒茶博物館。

カップに注いだ紅茶は赤っぽい色をしている。日本語でも中国語でもこの茶の名称は「紅茶」だ。漢字圏で暮らす人にとって、色に由来する「紅茶」の名称に違和感はない。ところが、英語で紅茶を「ブラック・ティー」と呼ぶように、西洋の言語では紅茶を「黒い茶」に相当する言葉で呼ぶことが多い。なぜなのか。湖南省茶業協会の蒋躍登常務副会長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、本来の「ブラック・ティー」やそれを運んだ「ティー・ロード」について、さらに欧州で紅茶がなぜ「黒い茶」と呼ばれるようになったかを紹介した。以下は蒋常務副会長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

■1万4000キロも伸びる「万里のティー・ロード」

中国の黒茶は発酵茶の一種だ。いったん発酵を止めた後に改めて発酵させる、比較的特殊な作り方をする。中国北西部、あるいはアジア北部の内陸の遊牧民は、この黒茶を飲用してミネラル分などの補充をした。黒茶は長距離輸送する場合、圧縮して体積を小さくすることが一般的だった。

湖南省の安化県は、唐代(618-907年)末期に長期輸送に適する圧縮した黒茶を初めて生産した土地だ。明代には安化の黒茶が役所を通じての専売制になった。最盛期には安化黒茶の年産量は「数十万担」だったとされる。「担(ダン)」とは重さの単位だ。時代によって「1担」が示す重さは変化したが、明代には「1担」が約60.5キロだったとされる。年産量が「50万担」だったとして単純計算すれば、年産量は3万トン以上だったことになる。また、文献に「黒茶」の名称が登場するのは、この時代だ。

黒茶の製造技術が確立されたのも明代だった。産地は雲南省、広西省、福建省、湖北省にも広がり、中国国外に売られていくようになった。生産地として特に重要だったのは、やはり湖南省の安化だった。また、販売や輸送については扱うことを許可された山西省の業者が活躍した。茶畑での栽培から茶葉の加工、製品の輸送など産業システムが完成した。また、業界としての「掟」や水運の際の各種の基準も確定していった。

国際的に重要なのは、中国からモンゴル、ロシアへと延びる、全長1万4000キロの茶葉の販売ルートが確立されたことだ。中国とモンゴル、ロシアは2013年、この茶葉の販売ルートを「万里のティー・ロード」と名づけて世界文化遺産登録を目指すことで合意した。中国は2019年に「万里のティー・ロード」を自国の「世界遺産予備リスト」に登録した。

この「ティー・ロード」の起点である安化周辺の山道は険しく、交通は極めて不便だ。外来の茶商人と地元の茶農家は肩担ぎや駄馬などの原始的な方法で茶葉を運んだ。安化には茶を扱う商店が300軒以上もあった。黒茶の関係者は、橋の建設、道路の建設、寺の建設などの公益活動にも参加した。そのため、安化には今も、古茶園、古道、古橋、古い茶葉工房、古い集落、古い石碑など茶文化の遺跡や遺物が存在する。それらは、往時の「万里のティー・ロード」の繁栄を十分に示している。

■西洋人がかつて飲んだ茶は、正真正銘の「ブラック・ティー」だった

中国産の茶葉は14-17世紀に、中央アジア、ペルシャ、インド北西部にもたらされた。そしてアラブ商人を通じて欧州に伝えられた。同じ時期に、欧州のキリスト教宣教師は中国に来て布教を始めた。彼らは中国の茶葉と喫茶の習慣を欧州に紹介した。例えば、イタリア人宣教師のマテオ・リッチは著作の中で、中国の喫茶の風習を細かく紹介している。そして欧州人も茶葉を求めるようになった。

このようにして、茶葉は中国から欧州に向けての重要な輸出品になった。この時期に、大量に輸出できる体制が整っていたのは安化黒茶など、湖南省で生産される黒茶だけだった。そして欧州人は黒茶を、例えば英語の場合には「ブラック・ティー」と呼ぶようになった。

その後、18世紀に紅茶が開発されて輸出されるようになると、紅茶の人気が高まって黒茶に取って代わった。しかし欧州人は依然として、中国産の茶を「ブラック・ティー」と呼び続けた。

湖北省の漢口は、国際的な茶葉の取引にとって重要な場所だった。ここでは英国人商人とロシア人商人が激しく争った。結局、英国人商人は競争に敗れて漢口から撤退した。英国人はその後、インドやスリランカで茶の栽培を始めた。このことで「茶の拠点」としての漢口の地位は脅かされるようになった。

一方でロシア商人は茶農家から茶葉を買い取って加工し、長江水系さらに海のルートを利用して茶葉を輸送し始めた。そのため、湖南省や湖北省から北上する「ティー・ロード」は衰退していった。

1905年にシベリア横断鉄道が全線開通すると、茶葉のほとんどは列車でロシアに送られるようになった。このため「万里のティー・ロード」は歴史の舞台から姿を消した。

■「ティー・ロード」は動き続けた歴史の縮図

しかし、この「万里のティー・ロード」は歴史上、アジア南部の農耕文明と北部草原の遊牧文明をつなぐ重要な役割りを果たした。さらに、「万里のティー・ロード」を経由して茶葉が中央アジア、さらに欧州に伝えられたことが発端で、茶葉は全世界で流通する商品になった。

中国の黒茶は今もなお旺盛な発展の活力を残している。安化黒茶はロシア、中央アジア、欧州、東南アジア、アメリカなどに輸出されおり、中国の茶文化が世界に影響を与えている代表例であり続けている。「ティー・ロード」の世界遺産登録を中心に茶文化遺産の保護を深めることは、崩れかけている文化遺産を効果的に保護し、そして利用し、文化遺産に対する国民の意識を高め、さらには世界に中国を理解するための重要な要素を提供することにもつながる。

茶葉は交易という経済行為と、文化交流の両方に深く関わった。「万里のティー・ロード」は、ただ線状にそこに存在しただけでなく、その上を多くの人が行き来した、「動き続けた歴史の縮図」を示す遺産であり、文化遺産、考古学の研究対象、観光資源として、いずれもより大きな価値を持つ。

黒茶は今、健康茶としても人気が高まっている。「ティー・ロード」などの時代からの古い歴史を持つ黒茶は今後も、世界の茶文化の一部として、その発展を牽引(けんいん)していくに違いない。(構成 / 如月隼人

黒茶

湖南省安化県の中国黒茶博物館

湖南省安化県の中国黒茶博物館

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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