壁画から飛び出した“敦煌舞”、現代のダンスシーンに与えた衝撃とは―中心的人物が紹介

中国新聞社    2022年11月22日(火) 22時30分

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敦煌莫高窟に残る壁画を元にして考案された舞踊が「敦煌舞」だ。あくまでも壁画に忠実でありながら、新しい特徴も備えている。この「敦煌舞」が現代のダンスシーンに与えた驚きとは、どのようなものなのか。

中国の伝統舞台芸術の中で、舞踊は極めて大きな比重を持つ。少数民族の多彩な伝統舞踊も詳細に研究され、若手の育成も熱心に行われている。その中でも異彩を放っているのが「敦煌舞」だ。伝承者から学んだ踊りではなく、敦煌莫高窟に残る壁画の踊りを再現した。「敦煌舞」という新たな舞踊ジャンルを確立した高金栄さんはこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応えて、「敦煌舞」についてのさまざまな話題を紹介した。以下は高さんの言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

■行き詰まり感が強かった中国の舞踊界、「敦煌舞」の出現で状況が一転

敦煌舞というジャンルが誕生してから43年が経過した。初期の作品として重要なのは「絲路花雨(シルクロードの花と雨)」だ。1970年代には当時の中国舞踏家協会主席で著名な舞踏家だった呉暁邦さんが協会理事会で「われわれの踊りは行き詰った。ここにいる中国舞踊の主力が努力して突破せねばならない」と発言した。そして70年代末に発表された「絲路花雨」が、その後に続く道を切り開くことになった。

「絲路花雨」を創作したのは甘粛省歌舞団で、同省にある敦煌莫高窟の壁画に描かれた踊りの姿を元に作られた。「絲路花雨」は、踊りを通して物語を描く作品で、「舞劇」というジャンルに分類される。中国ではこの「舞劇」の創作がきわめて盛んになった。

「絲路花雨」は舞踊界の大きな注目を集め、多くの関係者が敦煌を訪れた。多くの人は、演出家や創作舞踊の実践者の角度から研究した。私は当時、甘粛省舞踏家協会の主席で、舞踊教育も手掛けていた。私は、新たな舞踊の創作を考えると同時に、敦煌舞を体系的に教育する方法を考えた。

だとすれば、教材や人材育成の方法、そして演目の全てが必要になる。

私が初めて敦煌莫高窟を訪れたのは1979年9月だ。洞窟一つ一つの壁画を見て、踊る姿をスケッチした。私は教材システムの構築や人材育成の観点から研究を行った。

敦煌の壁画で舞を舞っているのは飛天と呼ばれる天人だ。仏を称賛するために空中で舞っている。私は小さな飛天の舞姿の図を135点を描いて、壁画の舞い姿の形態を研究した。記録したメモは、十数万字分に達した。そのような作業を通じて、壁画の舞い姿にある共通性と法則を探した。

壁画に描かれているのは、イメージからイメージへの推移であり、静止から活動への移り変わりだ。そこで研究の中心は、飛天の踊りが持つ動きのスタイルの特徴を掌握することだった。まずは資料の収集が必要だった。舞い姿の個別のイメージを全面的に収集した。さらに、敦煌史を学ぶこともした。

■莫高窟の1000年の歴史を通じて不変だったことを探り続ける

莫高窟がうがたれ壁画が描かれた年月は約1000年に及ぶ。時代の変遷、社会の変化、風俗習慣および審美基準の変化に伴い、時代によって壁画や塑像は、異なる題材、特徴、風貌を持つ。しかし、どの時代の壁画でも、舞い方には共通の基本的なスタイルがある。この共通点こそが敦煌独特のスタイルであり、細心の注意を払って研究し、真剣に掌握すべきことだ。

敦煌の舞い姿の特徴にはまず、手の形態が多用で、繊細かつ秀麗であり、中国の古典的な美観が表出されていることがある。腕はしなやかで、多くの場合は曲がっている。裸足で踊っており、足の形態は甲が反っていたり足を組んでいたり歪ませていたりと、非常に豊富だ。これは敦煌舞の特殊な舞い姿を形成する重要な部分だ。体は沈みこむことが多く、股の曲がらせ方は3種類ある。それから腰太鼓、琵琶などの道具を多用する特徴がある。

壁画の観察を通じて、敦煌の古代のスタイルは、西域の舞踊、中国の中心部の中原地方の古典的舞踊、地元の民間舞踊が組み合わさっていることが分かった。私はすでに確立されていた、中国の古典舞踊や西洋のバレエの教育システムを参考にして、人体の「頭からつま先まで」の各部位を解剖し、それによって基本動作の教材を作成した。この方法は、かなり型破りだった。

整理された基本的な訓練部分は、呼吸、目つき、手つき、手の位置、足の位置、足運び、跳躍、コントロールなどで、飛天や男性の力士という役どころや袖の扱いや男性の場合の太鼓打ちを系統立てて体得し、それらを組み合わせるようにした。

教材が完成し授業を行う際に、カリキュラム名が必要になった。そこで「敦煌舞」と名づけた。最初は知られていなかったが、メディアで取り上げられて徐々に知られるようになった。私は「敦煌舞」の研究が敦煌学の一分野になり、さらに「敦煌舞」がきっかけで敦煌の石窟芸術を愛する人が増えて行ってほしいと願っている。


■多くの民族の芸術性が融合、現代にも「文化のあるべき姿」を語り続ける

敦煌一帯では、極めて古くから多様な民族の人々が暮らしてきた。各民族は独自の民族舞踊を持っている。いずれも美しい舞踊だ。そのことによっても、敦煌はシルクロードの要所であり、その特有の地域、歴史、文化などが敦煌石窟芸術に多元的な人類文化因子をもたらしてきたことが分かる。それらは調和して全体の眺めに溶け込んでいる。より具体的には中華文化の輝きやインダスの芸術の優雅さらに西域文明の華やかさや雄渾さだ。それ以外の民族の珍しい風采もある。だから敦煌は中国の敦煌と同時に人類の敦煌でもある。敦煌文化は中国の文化であると同時に、世界の文化でもある。

このような土壌から生まれた「敦煌舞」は、古代シルクロードの各民族の音楽舞踊文化の衝突と交流を余すところなく表現している。例えば、インド舞踊と敦煌舞で、ほとんど同じ手の仕草がある。この手の仕草はタイやミャンマーなど仏教国の踊りでもよく使われてる。シルクロードの天山南路のタクラマカン砂漠の北部にあるクチャ(亀茲)の遺跡の壁画でも、同様の手の仕草が見られる。

また敦煌舞には「交差式後足踏み」と名づけた足の用い方がある。膝を前に出す際に、体重を支える足を少し曲げて行うステップで、見ている人には心の内面に沈んでリラックスするような、特別な美を感じさせる。この動きはインドの古典舞踊やインドの壁画にしか見られない、極めてインド的な動きだ。このことからも、敦煌舞はインドの古典舞踊の影響を強く受けていることが分かる。中国舞踊やインド舞踊の典型的な結合事例なのだ。

敦煌舞の教材を作成する際には、全ての動作を敦煌壁画に描かれた舞いの姿に依拠するものにした。また、西域や中原、その他の地方の舞踊が結合している特徴に基づいて、関連する民族の踊りの特徴を広く吸収した。例えば甘粛省の武威に伝わるランタンを用いる集団舞踊や、チベット族の伝統儀式での動き、モンゴル族の豪快な風格、朝鮮舞踊の呼吸の仕方や回族の舞踊の起伏の付け方だ。敦煌舞は伝統文化の継承と発揚であると同時に、現代における新たな創造でもある。

私は1981年と83年、86年に、学生を連れて敦煌、北京などで公演した。このことで、敦煌舞は多くの人に知られ、愛されるようになった。敦煌舞は敦煌研究の専門家からも評価された。現在の敦煌舞は、多くの現代的な要素を加え、多くの分野との融合や吸収も行っているが、その本質である「敦煌壁画の舞い姿」から得られた踊りであることは絶対に変更しない。

敦煌舞が完成されたのは甘粛省の省都である蘭州だが、言語学や文化学、歴史学、仏教学、インド学など極めて広い学問分野を手掛けて敦煌トルファン学界の会長も務めた季羨林先生(1911-2009年)は「敦煌舞は必ず全国へ、世界へと羽ばたくことになる」とおっしゃっていた。その言葉通り、敦煌舞の公演は40年以上にわたり世界各地で行われてきた。私は米国やカナダ、シンガポール、韓国などに招かれて講義をしたり、ダンスコンテストの審査員をしたり、ワークショップを開いたり、学生を連れて出演したり交流してきた。外国人の心の中でも敦煌芸術は真の、純粋な「東洋の魅力」を発揮していると自負している。

今後については、踊りの世界の中で敦煌舞が明確に位置づけられ、定義され、その性質が定着していくことを願っている。さらに、敦煌の精神を真に持ち、かつ正確なスタイルの教材を厳しく検定し、敦煌の舞踊芸術の独特で素晴らしいスタイルを普及、伝承することを望んでいる。

敦煌舞の教育革新と伝承は、自然科学のように地道に研究していくことが大切だ。ノーベル賞受賞者の楊振寧氏と莫言氏は対話した際に、研究をするためには「真の感情、妙なる悟り、そして文章を紡ぎ出す」ことが必要だと語っていた。敦煌舞に関連する研究も同様だ。敦煌舞は民族のものであり、中国のものだ。われわれにとって、包容力を持ち、開放的であることは大切だ。多くの物を広く取り入れねばならない。しかしさらに大切なことは、自分自身を失わないことだ。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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