中国新聞社 2022年12月7日(水) 11時30分
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人類の歴史で「農業の発明」は実に画期的だった。中国はこの農業分野でも、世界に大きく貢献した。写真は長江中下流域の考古学調査で見つかった、炭化米。
人類の歴史で「農業の発明」は実に画期的だった。人々が餓死する危険性は、完全とは言えなくとも、大幅に減少した。そのため、より多くの人口を養えるようになった。そして多く得る者と少なく得る者の分離が発生し、社会に階級が出現した。治水や農地の整備の必要があり上層階級は強い権力を持つようになった。そして文明が出現した。北京大学歴史学科の韓茂莉教授はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国の農業と世界の結びつき、そして中国が世界に果たした貢献を説明した。以下は韓教授の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。
■人類史上で最も長かった「農業の波」の期間、中国は常に“主役級”だった
世界の三大主食作物とは通常、米、小麦、トウモロコシを指す。全世界の人口の約6割が米を主食にしているとの統計もある。この米の農作物化は中国で行われた。今から1万年以上前の長江の中下流地域や銭塘江流域で、住民は稲を農作物に改良した。野生の植物をそのまま農作物として利用できることは、ほとんどない。より多く、より確実に収獲できる株を選ぶ作業を繰り返して初めて、人にとって真に役に立つ品種が得られる。言わば、植物の「家畜化」だ。
中国で「家畜化」された稲は、東アジアや東南アジア、南アジア地域に伝わり、さらに多くの地域に広がっていった。
中国で「家畜化」に成功した植物は米だけではない。華北ではアワやキビが植えられるようになった。河北省武安市にある磁山文化遺跡では、今から9000年前の人々が、アワを栽培して主食にしていたことが分かっている。中国北部には西方から小麦などが入ってきたが、中国北部で「家畜化」された作物が外に出ていく現象も発生した。中国の南部からは米、北部からはアワやキビなどが、世界に広まっていった。
米国の未来学者のアルビン・トフラー(1928-2016年)は1980年に発表した著作の「第三の波」で情報化社会の到来を予言し、それを「第三の波」と名づけた。トフラーの言う「第一の波」とは農業の始まりであり、「第二の波」とは工業化だ。これらの中では、「第一の波」によって形成された期間が最も長かった。中国はその期間を通じて常に、世界の中でも「主役級」の存在だった。
食べ物だけでなく、絹も農業生産によってもたらされた。洋の東西を結んだ「シルクロード」という言葉があるが、この言葉は、中国が歴史を通じて世界に及ぶ物流の重要な起点だったことを意味する。
■「生きにくかった場所」だからこそ、古代文明が出現
古代四大文明とは通常、チグリス・ユーフラテス川の流域だった古代オリエントと、ナイル川流域だったエジプト、ガンジス川流域のインド、そして黄河流域の中国の中原地帯を指す。いずれも大河流域の乾燥地帯だった。
なぜ、大河流域の乾燥地帯で、人類初期の大文明が形成されたのだろうか。農業が出現する前、人類は狩猟採集で食物を得ていた。人口が増加し、干ばつなどに見舞われると食物が不足して、人口を養うことができなくなる。
そのような厳しい状況にさらされた人々は、植物の成長に目を向けるようになったのかもしれない。そして、自ら植物を育ててみようと考えた。農業の原点だ。植物を栽培するには、道具の製造や水利の整備が必要だ。こうして、文明の灯りがともされた。人類にとってより厳しい生存の危機にさらされた乾燥地帯で、より早い時期に文明化の一歩が踏み出されたと考えられる。
中国の長江流域で稲作文化が発生したことも、環境と関係があるようだ。考古学の成果によれば、稲作遺跡のほとんどは山や丘のふもとに存在する。周囲には湖や川、沼が多くあり湿地帯も多かった。そのような場所は稲の自生にとても適している。しかし当時の人々にとって、本当の水辺では生きていくことが困難だったのではなかろうか。水害などのリスクは大きかっただろう。そのため、水田など人工施設を必要とする、水辺から多少は離れた場所で稲作をした。もはや、自生している稲の種子を採取するのではない。つまり、農業が発生した。
■意外に知られていない歴史上の文化の広がり、知らせる努力と技が必要だ
中国国外の博物館で、中国関連の収蔵品を見かけることは珍しいことでない。私が訪れた南米最南端のアルゼンチンのフエゴ島にある小さなレストランでは米飯を提供していた。その時には心が動いた。この米は、直接には中国以外の国からもたらされたのかもしれないが、1万年以上前に最初に人工的に栽培されたのは中国だ。世界のどこに行っても、1杯の米飯を見れば、その米が最初に「家畜化」されたのは中国だったということになる。
オスマントルコ帝国時代の皇室用品の中に中国製の磁器があるのを見たこともある。ロシア中央部のニジニ・ノブゴロド市には、文学者のマクシム・ゴーリキー(1868-1939年)の生家があるが、そこでは清朝時代の女性の上着が展示されている。このように、文化の交流や広がりは、極めて広範囲で行われていた。
しかし、中国以外の人は中国の文化やその広がりをよく知らない。中国人の国外文化に対する理解も不足している。われわれとしては中国文化を海外にしっかりと紹介したいものだ。
この点で、中国には改善すべき点がある。例えば遼寧省朝陽氏になる牛河梁遺跡から出土した女神像は、巨大な眼球が目立つ。しかしこれは本来の姿ではなく、目の上の土や彫刻が欠落しためだろう。女神像をただ展示するだけでは、当時の人々の審美眼などを誤解されてしまう。特に国外の人々に自国の文化を伝える場合には、誤解されないように注意する必要がある。
私はギリシャを訪れた際に、現地の文化財を視覚的に紹介する書物を買ったことがある。薄いプラスチック板を何層も使って、現状と調査結果に基づく復元図を示している。最後のシートを持ち上げると、石づくりの神殿の当時の全貌にたどり着ける工夫だ。こういう工夫があってこそ、見る人は文化と歴史をしっかりと理解できる。
メディアも文化を伝えるための手段だ。どのような方式で、どのような態度で、われわれの文化を海外に紹介して、理解し、認めてもらうべきなのか。中国文化が海外できちんと評価されれば、中国人の老若男女は自国の文化をより一層、誇りに思うだろう。そのことも大切だ。中国文化を中国国外にどのように伝えるか。これはわれわれが考える価値のある問題だ。どのような文化を選び、どのような表現方法を工夫するか。「中国の物語」を伝えるためには技術が必要だ。(構成 / 如月隼人)
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Record China
2022/11/30
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