ANAグループ芝田浩二社長、自らと会社の「中国との関係」を語る―香港誌「亜洲週刊」

亜洲週刊    2022年12月18日(日) 17時30分

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香港誌「亜洲週刊」は毛峰東京支局長によるANAホールディングスの芝田浩二社長に対するインタビュー記事を発表した。ANAグループ、そして芝田社長個人も中国との強い絆を持ち続けてきた。写真は毛峰氏提供。

香港誌「亜洲週刊」はこのほど、毛峰東京支局長の署名入りの、ANAホールディングスの芝田浩二社長に対する独占インタビュー記事を発表した。芝田社長は東京外国語大学で中国語を専攻し、1979年から81年にかけては休学して北京の日本大使館に勤務した。卒業後はANAに入社。中国語や英語に堪能な能力などを生かして、欧州やアジア戦略を担当するなどでANAの国際化を支え、グループの経営戦略立案なども行った。そして2022年4月1日付で、ANAホールディングス代表取締役社長に就任した。以下は、亜洲週刊の毛東京支局長によるインタビュー部分の抄訳だ。

毛:

全日空は今年で創立70周年です。この2年余りの新型コロナウイルス感染症の影響を受けた特別な時期を除いて経営業績は素晴らしいもので、多くの分野で「アジアで一番」を達成してきました。成功の秘訣は何でしょう。


芝田浩二社長は学生時代に中国語を専攻し、外交官の経験もあるという、大企業のトップとしては異色の経歴の持ち主だ

芝田:

全日空は純粋な民間航空会社として創業して以来、二つの精神を引き継いできました。美土路昌一初代社長が唱えた「和協」と「今は貧しくとも将来に希望を持つ」のチャレンジ精神です。

まさにANAの創業以来の経営の根幹にあるDNAで、従業員が互いに理解し互いを思いやり、困難に直面しても未来に向けて挑戦し続けるのです。この調和の精神と挑戦の精神が全日空に代々受け継がれ、ANAの大きな柱となり、事業の発展にも浸透しました。

全日空の事業は最初の35年は政府の政策で制限されて、基本的に国内線に支えられました。国際線は1986年の開始です。経験とノウハウに乏しかったANAは、香港のキャセイパシフィック航空による研修を受けました。国際線は就航してから赤字が続き、国内線の黒字で埋めることで、全体の収益バランスをとって会社を成長させました。99年は(国際的な航空会社の連合組織である)スターアライアンスに加盟した転換の年でした。国際線の業績は改善され、2004年からは黒字を続けました。国際線と国内線のハイブリッドミックスは黒字を維持し、ANAは日本最大の民間航空グループになりました。

今後3-5年の中期経営戦略でもありますが、柱となる航空事業の着実な成長を確保し、中核となる国際線の回復と拡大を進めることが、今後の最大の試練だと考えています。そのためには、人材の確保が特に重要です。人は力です。従業員の働き方改革や給与としての還元などを行い、企業への帰属感、栄誉感、責任感を高める必要があります。

毛:

芝田社長は東京外国語大学の中国語学科を卒業し、北京の日本大使館にも2年間勤務されました。日本の巨大企業のトップとしては異例です。中国語を勉強するようになったことに、どのような不思議な縁がおありだったのでしょうか。

芝田:

私と中国には確かに独特の縁があります。今まで中国に行ったのは400回を超えました。昔、私の部屋には「黄鶴楼送孟浩然之広陵(黄鶴楼にて孟浩然の広陵にゆくを送る)』の詩が飾られていました。葡萄の美酒と夜光杯の詩もありました。日本国民は高校生になれば漢文や漢詩を習うのです。詩としては李白杜甫王維などの詩人の作品を学びます。私はそのころから中国にとても興味があり、漢詩の勉強を通して中国の魅力を想像していました。

1972年には日中の国交が回復し、遠く離れていた中国が一気に身近になりました。これからは自分の目で中国を見て感じられるようにと、大学受験時に中国語専攻を志し、76年には東京外国語大学に入学できました。しかし、当時は一般の日本人にとって中国へ行くのは容易ではなく、ビザが必要で、観光も難しかった。組織された日中友好青年の船でしか行けない状況で、私は他の方法を探さねばなりませんでした。


芝田氏は中国人客室乗務員の研修を担当した際に、中国語の能力を大いに発揮した

そして日本の外務省が2年間の短期外交官嘱託職員を募集していることを知り、試験を受けて合格したので、北京の日本大使館で2年間勤務することになったのです。この2年間の職歴は、まるで昨日のことのように鮮明によみがえってきます。一番感じたのは、日本とは全く違う世界に来たということです。会って接した中国人はどの人も親切で友好的で、特に子どもたちにはとても優しい人々でした。

そんなわけで、私は大学での学業を終えるのに6年かかりました。そして、82年に卒業して全日空に就職しました。当時は全日空に国際線がなかったので、いつか必ず国際線の定期便を実現しようと秘かに決意し、そのためにいろいろと準備をしました。その後、中国各地へのチャーター便が続々と実現し始めました。特に印象に残っているのはアモイ線です。85年当時のアモイ空港は外国の航空会社の航空機乗り入れが常に難しかったのです。いろいろと紆余曲折がありましたが、全日空は外国の航空会社として初めてのアモイ空港への乗り入れ許可を得ました。

全日空は中国民用航空局と古くから関係を持ち続けています。あまり知られていないのですが、中国民用航空局の客室乗務員研修は全日空が担当することになりました。私は84年と85年に国際部に所属していて中国語もできたので、中国人客室乗務員の研修や受け入れとその調整を担当しました。また、パイロットの訓練も担当しました。中国の客室乗務員は皆、美しくて優しくて、頭もよかったですね。忘れられない経験です。


全日空で研修を受けた中国人客室乗務員の第1期生。全日空には中国の航空会社との深いつながりがある

毛:

全日空グループは中国と縁が深く、中国路線は全日空の国際線の中で最も高い割合を占めています。全日空グループとしての今後の中国での事業展開について、どのようにお考えですか。

芝田:

全日空は2代目の岡崎嘉平社長から中国と良好な関係を保ってきました。長い年月をかけて岡崎氏の精神を受け継ぎ、中国との健全な関係を維持してきました。87年に全日空が最初の中国路線を開設してから35年になりますが、中国市場の開拓に力を入れ、中国路線の航空便を積極的に拡大してきました。全日空は新型コロナウイルス感染拡大前の2019年まで、中国本土の北京や上海など10都市への直行便を週に182便も運航していました。全日空の国際線に占める中国路線の割合は25%に達しました。また、全日空は中国国際航空とのコードシェアなど、中国の航空会社との連携を強化してきました。全日空の成長は中国事業の拡大に支えられており、今後も中国市場を積極的かつ着実に開拓していく方針です。

急務であるのは、新型コロナの影響で欠航している便の早期再開です。その次には新規路線の開拓や既存路線の増便に着手します。全日空グループには、旅客輸送のANA、LCCのピーチ・ジャパン、さらにエアー・ジャパンという3つのブランドがあります。今後はそれぞれの事業領域や特徴を生かして中国やアジアでの事業を拡大していきたいと考えています。

日中両国は一衣帯水の隣国です。中国語には「取長補短(長所を取り入れ短所を補う)」と「互尊互敬(互いに尊敬し合う)」という言い方があります。これは日中両国の人々が尊重し理解し合うことを深めるための、非常に重要な「座右の銘」です。相互理解は人と人とのつながりの基礎であり、往来の強化はつながりを促進する重要な手段です。人と人との相互往来を推進し促進する重要な手段である絆が航空事業であり、航空事業は「空の懸け橋」です。

全日空の新社長として、全日空グループの3つのブランドの強みを生かし、「和協」と「挑戦」の企業精神を堅持し、全日空の中国とアジアでの事業を効果的に定着させ拡大し、日中の空の懸け橋の新たな案内役としての役割を果たしていきたいと考えています。(翻訳・編集/如月隼人

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