ヤルタ密約と司馬遼太郎「ロシアについて」=60年前の毛沢東主席発言はなかったことに?

長田浩一    2023年7月13日(木) 6時0分

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今年は作家の故司馬遼太郎氏の生誕100年に当たる。彼が最も関心を寄せた外国は、中国、ロシア、そしてモンゴルではないだろうか。

今年は作家の故司馬遼太郎氏の生誕100年に当たる。司馬氏と言えば、戦国時代や幕末・明治を舞台にした作品群が人気だが、外国を扱った作品(主人公は日本人だとしても)も少なくない。彼が最も関心を寄せた外国は、中国、ロシア、そしてモンゴルではないだろうか。

「若い国家はたけだけしい」

先日、エコノミストでN&Rアソシエイツ代表の西谷公明氏と懇談する機会に恵まれた。西谷氏は1990年代前半に独立直後のウクライナ政府の経済政策を現場でサポートしたほか、2004~09年にはロシアトヨタ社長を務めており、ロシア、ウクライナ双方に精通する稀有な日本の経済人。

そんな西谷氏が、ワイングラスを傾けながらこんな言葉を口にした。「日本最高のロシア研究者は司馬遼太郎さんですね。彼の『ロシアについて』はお薦めです」。

私は、司馬氏が「日本最高のロシア研究者」という認識はなく、「ロシアについて」も未読だった。早速、1986年に出版された同書を取り寄せたところ、(1)13~15世紀のモンゴルによる支配―タタールのくびき―がロシア社会に大きな後遺症を残した(2)その影響でロシア人による国家の確立は他の欧州諸国に比べて遅くなり、若い国と言えるが、「若いぶんだけ、国家としてたけだけしい野性をもっている」―などの指摘に、目から鱗が落ちる思いがした。

司馬氏はまた、「アメリカ合衆国の開拓時代と同様、人間の持つ蛮性―プラス面でいえば民族としての若さ―が推進のエネルギーになっていた」と、やはり若い国である米国(建国は1776年)とロシアの共通点に言及する。20世紀の後半、この両国が圧倒的な軍事力で世界を二分し、現在もウクライナをめぐり対立しているのは、ある意味で歴史的必然なのかもしれない。

モンゴル人の牙を抜いた清王朝

「ロシアについて」は、「タタールのくびき」をもたらしたモンゴルの盛衰についても興味深い視点を提供してくれる。旧制大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)でモンゴル語を学んだ司馬氏の思いが伝わってくる。

圧倒的な戦闘力を誇る騎馬部隊を押し立てて13~14世紀に大帝国を築いたモンゴルだが、その後は国際社会では影が薄い。大航海時代のスペイン、ポルトガルなど、一時的に世界をリードしたものの、短期間でその地位を失った例は他にもあるが、モンゴルはちょっと極端だ(それを言ったら日本も将来の歴史書に「20世紀の前半に軍事大国、後半に経済大国となったが、長続きしなかった」と書かれるかもしれないが…)。

モンゴル人の居住地は、ほぼ現在のモンゴル国の領土に当たる外蒙古(モンゴル高原)と、現在は中国領となっている内蒙古が中心だが、いずれも17世紀には満洲(清)王朝の版図に組み入れられた。そればかりではない。司馬氏によれば、清は「そこにいる騎馬・遊牧民族を、ラマ教(注=チベット仏教)などを勧めることによってまったく骨抜きにし、民族の骨髄まで腐らせてしまった」というのだ。私は、この見方の当否を判断する材料を持ち合わせていないが、宗教を広めることで、歴代の中国王朝が手を焼いていた騎馬民族の牙を抜いたとすれば、清王朝、恐るべしである。

密約第1項が「外蒙古の現状維持」

その後、内・外蒙古は1911年の辛亥革命で中華民国の一部となったが、24年に世界で二番目の社会主義国として外蒙古にモンゴル人民共和国が成立。誰が見てもソ連の傀儡国家であり、中国は独立を認めなかったが、既成事実を覆す力はなかった。

次に外蒙古が日本にも関わる形で歴史の舞台に登場するのは、まず39年のノモンハン事件(モンゴルと満洲国の国境をめぐる日ソ間の衝突)、そして第二次世界大戦末期の45年2月のヤルタ密約だろう。米英ソ3国首脳がヤルタ会談の機会に結んだ密約は、独ソ戦終了の3カ月後にソ連が対日参戦することに加え、南樺太と千島列島をソ連領とすることを定めており、北方領土問題の直接の原因として日本では評判が悪い。

ただ、ヤルタ密約の領土に関する取り決めの第1項は、樺太でも千島列島でもなく「外蒙古の現状は維持される」という条文だったという事実は意外に知られていないのではないか。外蒙古は第二次大戦終結後もモンゴル人民共和国のままで、中国には返さない、と宣言した形だ。これを真っ先に米英首脳に認めさせたということは、当時のソ連の独裁者スターリンがいかに外蒙古を重視していたかを物語る。

「北方領土は返還すべき」

約20年後、ヤルタ密約に異を唱えたのが中国の毛沢東主席だ。1964年7月に日本社会党代表団が訪中した際、「ソ連が占領したところは余りにも多すぎます。ヤルタ会談の時、外蒙古を名義上独立させ、名目の上で中国領から切り離しましたが、実際はソ連がこれを支配するようになったのです。…(中略)…われわれは外蒙古を中国に返還してはどうかという問題を持ちだしたことがあります。…(中略)…われわれはまだ彼らとの間に、決算が終わっていないのです」と言明。そのうえで「皆さんの千島列島についてですが、われわれにとって、それは別に問題ではありません。皆さんに返還すべきだと思います」と述べ、日本の北方領土返還要求を支持する立場を明確にした(毛主席の発言は、「データベース『世界と日本』から引用」)。

当時は中ソ対立が鮮明化していた時代で、この5年後には国境線をめぐり武力衝突も発生した。毛主席の発言はそうした時代背景の中で行われたものだが、ほかでもない中国共産党最高指導者の言葉であり、これが北方領土と外蒙古についての中国の基本姿勢と受け止められた。

司馬氏も、「ロシアについて」で、「もし千島列島(たとえそのうちの一部であっても)をソ連が日本に返還するとすれば、ヤルタ協定が崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求されればその『現状が維持される』ことを、法理的には、やめざるをえなくなる」として、2つの問題はリンクしていると指摘した。

ところが今年3月に習近平国家主席がロシアのプーチン大統領と会談した際、北方領土について「(どちらか一方の)立場を取らない」と述べ、日本支持の立場を修正したと報じられた(4月4日共同通信など)。この方針変更そのものは、最近の中ロ関係や日中関係などを踏まえると、想定の範囲内だろう。しかし、そうなると別の疑問が湧く。1964年の毛主席発言は「なかったこと」にされるのか?外蒙古についてもヤルタ密約を認め、返還を諦めるのか?一度、習主席に聞いてみたいものである。

■筆者プロフィール:長田浩一

1979年時事通信社入社。チューリヒ、フランクフルト特派員、経済部長などを歴任。現在は文章を寄稿したり、地元自治体の市民大学で講師を務めたりの毎日。趣味はサッカー観戦、60歳で始めたジャズピアノ。中国との縁は深くはないが、初めて足を踏み入れた外国の地は北京空港でした。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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