しかし、この静けさはトウ小平の南巡講話（改革開放路線の深化）によって打ち破られ、中国人の生活と政治がひとまとめに結びつけられた。天安門事件の後、国家は改革をさらに加速し、90年代初めには住宅制度改革が実施された。もともと市民の住宅は全て分配制度によって、企業の従業員に割り当てられていたのだが、住宅制度改革により、企業は次第に住宅建設コストに基づいて、企業の従業員に住宅を販売するようになった。これは国に対して一定のお金を払わなければ、もともと住んでいた住宅に住み続けることができなくなったことを意味した。

【その他の写真】

教授の平穏な日々に再び試練が訪れた。家の貯蓄だけでは足りず、教授は限られた時間の中で、お金を工面する必要があった。当時は中国特有の、頭脳労働者の収入が肉体労働者の収入を下回っていた時代。直接的な物質生産の発展を重視するあまり、知識人の給料はかなり少なく、「原子爆弾をつくる科学者の給料が、煮卵を売る行商人の給料にも及ばない」とまで言われていた。教授も給料だけでは住宅資金を捻出するすべがないのは極めて明らかであった。その上、私たちが卒業する年には定年を迎え、残された日々は多くなかった。それゆえ、教授は一日中気が気でなかった。

最終的に、教授は65歳の定年後、昔の生徒の助けを借り、韓国で中国語を2年間教えることになった。当時、韓国の給料は中国よりはるかに高く、2年間の収入で住宅購入資金をまかなうことができた。私が韓国の地方都市安東の安東大学で教授と会ったとき、教授はすでにそこで3カ月間仕事をしていて、私を見るととても嬉しそうにした。教授は私を学校の近くの焼肉屋で食事をしようと誘ってくれ、彼が韓国語を話せないために、わざわざ中国語学科の二人の生徒も連れてきた。ご飯を食べ終えると、店員が私たちにコーヒーはいるかどうかを聞きに来た。教授は即座にいらないと断った。しかし学生が食後のコーヒーは無料だと伝えると、すぐさま、「それならコーヒーをください」と言ったのだ。当時私はとてもきまりの悪い思いをしたのだが、今になって思えば教授の置かれた境遇を伺い知ることができた。

◆「酒みたいな強烈な作品だ」

その日の夜、教授は私を彼の大学寮に連れていき、世間話をした。私が教授に息子はどうしているかと聞くと、彼は少し複雑な表情を浮かべながら「今は子供の教育は妻に任せていて、自分は口出ししなくなった」と言った。私は「それが一番。心配することはない」と応じた。教授がやや興奮しながら「もし彼女が少しでも家庭を顧みていれば、生活はこんなはずじゃなかったはずだ！」と語気を強めた。この言葉を誰が想像できただろうか。

このとき教授が子供を自転車に乗せ、学校の食堂におかずを買いに行っていた光景や、奥さんがいつも家にいなかった光景が、映画のワンシーンのように私の頭に浮かんだ。それからしばらく私たちは何も話すことなく教授の蔵書を眺めていた。

まさにこのとき、私の目に『失楽園』がとまり、思わず手に取りページをめくった。突然、教授は私に｢『失楽園』を読んだことがあるか｣と聞いた。私が読んだことはないと答えると、「あれはまさに酒みたいに強烈な作品だ」と言った。

あの日、灯りに照らされていた教授の横顔が私の目の前にひっきりなしに現れ、彼の言ったあの言葉の意味を今ほど理解したことはこれまで一度もなかったように思う。

教授は幼年時代、戦乱をくぐりぬけ、中国の政権の入れ替わりを目の当たりにした。青年時代には、愛を語らうべき年代でありながらも、残酷な政治運動に巻き込まれ、かろうじて生き長らえて、文化大革命を終えた都市に戻ってきたときには、すでに50歳になっていた。ようやく家庭を持ち、平穏な暮らしを求めたときには、夫婦間の感情は冷め切り、子供の教育問題も立ちはだかり、教授の頭を悩ませるのには十分すぎた。さらに時代の変遷にともない、勉強し教育することしかできなかった彼は市場経済の現実に直面し、それゆえ故郷を離れ、異郷でお金を稼ぐことを余儀なくされた。さらに気の毒なことに、教授には心を通わせられる相手が誰一人としていなかった。

教授の目には、久木と凛子は幸せに映っていたはずだ。人生に疲れ果てたとき、何といってもお互いの存在に気付き、気持ちを打ち明けられる相手を見つけ、社会的圧力に向き合うすべがなくなったとき、少なくとも愛情の中に身をひそめ、情欲でお互いを慰めることができたのだから。

◆父親世代の心の軌跡か

教授は私の父親より何歳か年長だが、彼らを同世代と見なすことができよう。当然、個人の境遇はことごとく異なるが、この世代の人たちの運命は歴史の大きな変化に翻弄され、激烈な闘争の最前線に押し流されてきた。彼らが徐々に年老いていく今日、中国は再び世界の注目を一身に集めている。目覚しい経済成長の背後にある、疲れ果てた中国人の姿を覆い隠すことはもうできなくなっている。人々はすでに現実から息もできないほど圧迫され、当然のごとく父親世代の心の軌跡などのんきに気に留めてなどいられない。

もし時間を巻き戻せるならば、私は1998年夏の、あの安東の夜に戻りたい。渡辺淳一氏の『失楽園』を読んで、私がどう感じたかを教授と共に語り合いたい。もちろん教授の考えを全て理解できるなどと高望みはしていないが、1998年のあの頃よりは、教授に歩み寄ることができるはずだ。

■筆者プロフィール：任書剣（にん しょけん）

中国南京生まれ。南京大学卒業後来日。日本大学芸術学部大学院で映像制作を学ぶ、芸術学博士号を取得。これまでドキュメンタリー、テレビ番組の製作に多く携わる。2009年制作の初の劇映画「私の叙情的な時代」は多くの賞を受賞。