Record China 2014年8月12日(火) 11時34分
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12日、銭江晩報は「広州恒大サポーターのごみ拾い、日本と比べてはならない」と題する記事を掲載した。資料写真。
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2014年8月12日、銭江晩報は「広州恒大サポーターのごみ拾い、日本と比べてはならない」と題する記事を掲載した。
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11日、多くのウェブサイトで「日本のまね!広州恒大サポーターが試合後、自らごみを拾う」と題したニュースが伝えられた。恒大サポーターがスタンドのごみを拾ったのは、日本サポーターの行為をまねた結果なのだろうか。ニュースにはそのことには触れられていなかった。メディアが中国のサポーターと日本のサポーターの行為を関連付けるのは、「日本に負けてほしくない」と願っているからだ。日本サポーターのブラジルワールドカップ(W杯)でのごみ拾いは中国でも報じられ、中国サポーターの多くも目にした。一部のサポーターに“日本に追いつけ追い越せ”の精神が生まれた可能性もある。
スタジアムの中だけではない。大きなイベントが行われた後の会場に、ごみが散乱している光景はよく目にする。日本サポーターと比べると、確かに非常に恥ずかしい。比較すれば差ができる。差は羞恥心(しゅうちしん)をかきたて、羞恥心は人が変わろうとする原動力となる。これは良いことだ。しかし一方で、もし日本サポーターとの比較がなければ、中国サポーターは自らごみを拾っただろうか。ごみ拾いは単なる“形だけ”ではないか。ごみ拾いの意義は、一体どこにあるのか。
公共の場所でごみをポイ捨てすることは、環境を汚染し、人々が不快に感じるだけでなく、清掃員への礼儀も欠く。他人にどのような影響を与えるかは、人の行為を評価する最も基本的かつ最高の尺度だ。心の中に“人”の尺度があれば、どのような場所においても他人を気遣い、ごみをポイ捨てするようなことはしないだろう。ごみだらけの場所にいて不快に感じない人は、快適さを欲していない。そのような人は、ごみが他人を不快にするとは感じない。つまりは、人から尊重されたいと思わない限り、他人を尊重することはないのだ。
これは「ごみ問題」を語る上での起点となる。試合後にごみを拾うサポーターは、ごみをポイ捨てしない人たちだ。他人から不快にさせられたり、尊重されていないと感じた人たちだ。ごみを拾うのは、自らの快適さや尊厳を取り戻すためであり、自らの欲求から他人を尊重すること、環境を変えることの必要性を感じたからである。このような価値観から生まれた行動は長続きするだろう。
基本的な快適さや人から尊重されることへの欲求を持たない人は、日本サポーターの素養と張り合うためだけにごみ拾いに参加する。このような人の素養は、どれほど高まったと言えるだろうか。彼はごみ拾いをどこまで続けられるだろうか。誰も見ていない街の片隅で、彼はごみをポイ捨てしないだろうか。疑問符が付く。(自分を含めた)人を尊重することが、社会の構成員としての普通の意識となり、個々人の欲求となり、公共での行為を測る普遍的な尺度になって初めて、素養が高くなったと言えるのである。(翻訳・編集/北田)
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