中国新聞社 2023年12月11日(月) 23時30分
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11月28日に逝去したモンゴル族歌手のデドマーさん(写真)は、聴衆に愛され周囲の人々に尊敬される存在だった。内モンゴル音楽家協会の常慧淵副主席は、「役目を終えて天国へ飛び立ったと信じたい」と述べた。
11月28日に逝去したモンゴル族歌手のデドマー(中国語表記は「徳徳瑪」)さんは、全国で人気を博した少数民族歌手の一人だった。西洋音楽で言えばメゾソプラノの声域で、聴く者を時には母親の愛のような温かさで包み、時には鼓舞して勇気づけた。人生最大の危機は1998年の日本公演の際に、ステージで脳溢血に見舞われたことだった。「スケジュールがあまりにも過密だったことが関係したのでは」との声も出たが、デドマーさんは、海外に公演旅行に出れば特別に忙しくなるのは当たり前として、「私が助かったのは、まずは日本人の手厚いケアがあったから。倒れたのが日本でなかったら、死んでいたと思う」と、日本側への感謝の言葉を語りこそすれ、恨み言を口にすることは決してなかった。中国メディアの中国新聞社はこのほど、デドマーさんをしのぶ記事を発表した。以下は、多少の情報を追加するなどで再構成した文章だ。
歌手のアルタンチェチェグさんは11月28日午後、番組収録のために出かけた中国中央テレビ(CCTV)で、歌う曲目を「美しい草原、私の家」に変更すると伝えられた。同郷の先輩であり心から尊敬していたデドマーさんの持ち歌だった。そしてしばらくして、デドマーさんが死去したとの連絡が入った。
心臓が「ドキリ」と高鳴って激しく動揺したが、聴いてくださる方々のために悲しみをこらえて歌い切ったという。アルタンチェチェグさんは「このような形で尊敬する先輩に敬意を表して見送ることになるとは思いませんでした」と語った。
デドマーさんは国家一級演員という、中国の舞台芸術家として最高の称号の持ち主だった。長年にわたり「美しい草原、私の家」や「草原はお父さん、川はお母さん」などの、今も歌い継がれる曲で全国的に知られるようになり、音楽関係者の間では「草原のナイチンゲール」と呼ばれていた。
アルタンチェチェグさんは「幼いころからラジオでデドマーさんの歌声を聴いて育ちました。デドマーさんの歌にはとても品格があって、声も美しかった。私たちのあこがれの的でした。デドマーさんの『美しい草原、私の家』が大好きで、自分のアルバムに収録したこともありますと語った。
デドマーさんの故郷は内モンゴル自治区最西部のアラシャー盟エジナ旗(「盟」、「旗」は内モンゴルの行政区画名)だ。デドマーさんの歌の才能が見出されたのは小学生の時だった。学校の先生が、デドマーさんが「生で歌ってもマイクを使ったような声量の持ち主」と気づいたのだ。
デドマーさんは13歳だった1960年に、オラーンムチルという草原地帯を巡業する公演団体に入団した。いつも一緒に巡業する9人の中で最年少だった。当時は「洪湖水浪打浪」という中国歌曲をモンゴル語歌詞で歌ったが、その素晴らしい歌声は今でも語り草という。
その後にヒットした「美しい草原、私の家」は、今も歌い継がれるエバーグリーンになった。作詞や作曲、音楽評論、イベント企画など音楽関係を幅広く手掛けるホルチンフー(科欽夫)さんはデドマーさんを「モンゴル族のオリジナル曲を歌って影響力が最も大きな歌手の一人」と評した。
デドマーさんはオラーンムチルで4年間働いた後、内モンゴル芸術学校(現・内モンゴル芸術学院)で改めて声楽を学ぶことになった。さらに2年後には、北京である民族音楽の最高学府の一つである中国音楽学院の声楽科に入学し、洋楽式の発声法も学ぶことになった。
中国音楽学院を卒業後は内モンゴル民族歌舞団(現・内モンゴル芸術劇院)に所属し、さらに北京所在の中央民族歌舞団に異動して定年まで務めた。
人生最大の危機は、1998年の日本公演旅行中に訪れた。デドマーさんによると、ステージで歌っている最中に「急に手が力が入らなくなり、目の前が真っ暗になりました。歌い終わってステージを降りて、親身に世話をしてくれていた日本人にもたれかかってしまいました。椅子を見つけて座ると、何も分からなくなりました」という。
脳溢血の発作だったと知らされたのは、北京に戻ってからだった。デドマーさんは後になり、「多くの親友が支えてくれたから、音楽活動に戻れました。そうでなかったら、今の私はいません」と語った。
特に感謝したのが夫のラシニマーさんだった。常にリハビリに付き合って監督し、着替えや食事を助けた。テレビの音楽番組では、顔見知りの音楽家が出演しているのを見たのではデドマーさんの感情が高ぶると考えて、リモコンの奪い合いをしたという。
デドマーさんは2001年に、取材の記者に対して「舞台に戻ることができたのは、芸術の力によるものです。感謝せねばなりません」とも語った。
デドマーさんの76年の生涯の中では、シー・ムルン(中国語表記は「席慕蓉」)さんとの出会いも特別に重要だった。ムルンさんは台湾在住のモンゴル人詩人で画家だ。
ムルンさんの両親は、当時の中国の複雑な情勢のために台湾に渡った。しかし内モンゴルに生まれ育ったモンゴル人からも「モンゴル民族としての心を、私たち以上に持っている」と評されている。内モンゴルテレビはムルンさんが内モンゴルに「ルーツを探す旅」に来た際に、「草原の往時」という番組を制作した。
番組では、ムルンさんが激しく泣きながら、父祖の地について語った。デドマーさんもテレビを見て泣いた。そしてムルンさんに会いたいと思った。その後、知り合う機会があって二人はとても親しい間柄になった。ムルンさんに作詞してもらい2000年ごろから歌い始めた「草原はお父さん、川はお母さん」は中国全国でヒットした。
2018年9月に、75歳だったムルンさんと71歳だったデドマーさんは内モンゴル自治区政府所在地のフフホトで新曲「私に歌をください」を披露した。デドマーさんは「私にとっては普通の歌ではありません。60年以上の芸術人生の一つの節目です」と語った。ムルンさんは、デドマーさんと2度目の「合作」ができたことが、本当にうれしいと語った。
デドマーさんを取材したことのある光明日報記者の高平さんは、デドマーさんは漢字表記名が「徳徳瑪」であることが象徴するように、徳に満ちた芸術家だったと語った。
例えばデドマーさんは2002年、私財を投じてフフホトの郊外に内モンゴル・デドマー音楽芸術専修学院を創設したことだ。とりわけ、農業牧畜区の貧困家庭の子には学費を無料にして芸術を学ぶ機会を提供したことは尊敬に値するという。
同学院で学んだ経験のある歌手の尚栄さんも、「デドマー先生はとても親身で、生徒一人一人への責任をしっかりと果たしていました」、「デドマー先生は私を大小さまざまな舞台に連れていってくださいました。学費も払っていただきました。まるで母親のように、私が人としてすべきことをできるようにしてくださいました」と語った。
内モンゴル音楽家協会の常慧淵副主席によると、デドマーさんは2021年には音楽のネット配信にしばしば参加した。「私の印象に強く残ったのは、デドマー先生が曲を歌う際に、常に上を目指していたことです。どの歌でも録音技師に、『もう一度歌わせてほしい』と、何度も頼んでいました」という。
デドマーさんの突然の訃報に接した常府主席は「その歌声で人々に何十年も寄り添った『草原のナイチンゲール』が、その役目を終えて天国へ飛び立ったと信じたい。デドマーさんは不滅だ」と語った。(構成 / 如月隼人)
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