<雲中錦書>友好のシンボルは……パンダ!

Record China    2024年9月12日(木) 13時0分

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日本が中国との国交回復を模索した1972年当時、日本国内では反対の声は大きく、非常に根深いものがあった。

日本が中国との国交回復を模索した1972年当時、日本国内では反対の声は大きく、非常に根深いものがあった。

9月25日、田中角栄総理、二階堂官房長官、私の母方の祖父大平正芳は外務大臣として、国交正常化交渉のために北京へ旅立った。張り詰めたような緊張感と悲壮感に包まれた朝だった。テロの危険性もあり、もしかしたら、これが最後の別れになるかもしれない……、家族は誰も口に出して言わないものの、覚悟はあったと思う。

祖父が政治家になった時からいつか実現したいと考えていたこと、それこそが日中の国交正常化だった。一時は決裂もやむなし……という困難を極めた交渉だったが、やっとのことでまとまった後、中南海の毛沢東国家主席をお訪ねした。

その時に姫外交部長から「日本と中国、両国の友好の証として、このような贈り物をしたい……」と言って見せられた紙には、「大熊猫」と書かれていたという。「これは熊ですか?猫ですか?いったいどんな動物ですか?」と、尋ねた大平に姫部長は微笑みながら「外国では“パンダ”と呼ばれている、わが国固有の動物です」とのことだった。大平は、この時まで“パンダ”という動物の存在を知らなかったのだ。

そしてこの約束の直後、10月末に日本に初めてやってきたのが2頭のパンダ、カンカンとランランだった。その後、熱狂的なパンダブームと共に、両国は一気に友好ムードに包まれた。

それにしても国交正常化の調印後、たった一ヶ月でのパンダの来日は……すごいことだと思う。両国の担当者による、まさに“プロジェクトX”だったにちがいない。

一方で、物事の白黒をはっきりさせることが苦手で、むしろ嫌っていたからだろうか……、うちの祖父は「パ・ン・ダ」という3文字が覚えられず、いつも「あの、ほら、白と黒のクマ、なんだっけ?」と、事あるごとにきいていた。

それから7年後の1979年12月に大平は総理となって訪中し、このときに中国側から贈られたのが、ホアンホアンというメスのパンダであった。ホアンホアンは1972年生まれだったというから、国交正常化の記念の年に生まれたパンダを贈る……という外交的配慮に感じ入った。

我が家には大平の祖母志げ子が、鄧小平夫人と共にホアンホアンに出会ったときの写真が残されているが、ある時ラジオで、ホアンホアンは美人で有名なパンダ……と飼育員が話していたのだが、パンダの美人の条件とは、白と黒のコントラストがはっきりしていることだというのを初めて知った。

2008年の北京でオリンピックの年に、私は日本テレビで番組のプロデューサーをしていた。北京オリンピックに因んで、中国をテーマにする特別番組の企画募集があり、幼い頃から中国に慣れ親しんでいた私は“私がやらなくて誰がやるのだろう……”という、確信をもって企画を提出した。タイトルは『女たちの中国』。内容は、日中の歴史に翻弄された女性達のドキュメンタリーだった。嬉しいことにこの企画が採用され、日本テレビ開局55年の記念番組としての放送が決まった。

この大型特番の司会をお願いしたのは、パンダをこよなく愛する黒柳徹子さんだった。黒柳さんのパンダ好きは筋金入りで、カンカンとランランが上野動物園に到着した折のニュース映像には、真っ暗な道路で、一般人に混じってパンダを待っている黒柳徹子さんの姿が映っているのだ。

その後黒柳さんは、中国本土でもパンダの赤ちゃんの名付け親になったりして、世界を舞台に外交官以上のお仕事をされた。

そんな黒柳徹子さんのことを「私のお友達……」とおっしゃったのは、上皇后陛下美智子さまである。平成の終わり、御退位を目前にされた頃に私はお目にかかる機会を得たときのことである。私は、式典の陛下のおことばの後、日本テレビのスタジオでコメンテーターとして出演することになっていた。その時にどんなエピソードを伝えればよいかをご相談したのだが、そこでお話くださったのが何とパンダのぬいぐるみのエピソードだった。

1959年春、ご成婚前にお引っ越しの荷物を載せたトラックが到着したときに、お荷物の中に皇太子殿下が見つけられたのがパンダのぬいぐるみだったのだ。殿下はご自分で、そっとパンダを御所の中にお連れになり、居間の椅子にお置きになった。お輿入れのお荷物にパンダのぬいぐるみ……何とも可愛らしい!私はそのぬいぐるみについて美智子さまに質問した……すると、「あれはね……当時、銀座で売られていて、みんなが欲しがっていた珍しい品でした。2頭いたのだけれど、1頭売れてしまってがっかりしていたところ、その残りのひとつを私の結婚のお祝いにと、お友達たちがお金を出し合ってプレゼントしてくれたのよ!きっと、写真や映像が残っていると思います」と、おっしゃったのだ。

時は1959年……中国が鉄のカーテンならぬ竹のベールに包まれていた時代の話である。それから10年以上経った1972年の時点でも大平はその存在すら知らなかったのだから……黒柳徹子さんは1933年生まれで、美智子さまはひとつ年下である。同じ時代を過ごしたお二人には多くの共通の想い出が沢山おありになるのだと思う。

これは私の推測にすぎないのであるが、上皇后陛下美智子さまのお母様、正田冨美子さんはお父様の仕事の関係で、上海で育った。冨美子さんの父、副島綱雄氏は上海の日本租界で上海商工会議所の副会頭を務めた方で、中国という国を、その長短共に深く知る人であったという。そのようなお母様から、美智子さまはお小さい頃に、パンダのお話をきいていらしたのかもしれない。

2019(平成31)年4月30日夕刻、陛下は「……即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。……」と、おことばを述べられた。日本テレビのスタジオで拝見していたのだが、何とも表現の仕様ないほどの感慨を覚え、目頭が熱くなった瞬間であった。そして、番組では例のパンダのぬいぐるみで遊ぶお子様たちが映されたのだ。

私は美智子さまから直接きかせていただいた「陛下のお心とお身体のお疲れがわかるのは、私だけでした……」という話を披露した。取材をはじめて30年、テレビプロデューサーとしての集大成のような、特別な一日だった。

美智子さまの“パンダのぬいぐるみ”のその後のおはなし……

「ところで、あのパンダのぬいぐるみは現在どうなっているのでしょうか?」と、美智子さまにお尋ねしたところ……「あの子はね、3人の子どもたちがあそんであそんで……、お涎やら何やらで、ドロドロになってしまって……さよならしたの…」と、おっしゃったのだ。愛されたぬいぐるみのしあわせな結末だと思う。

そして、パンダという愛くるしい特別な存在は、これからも友好のシンボルとして、世界中から愛され続けるのだと思う。(渡辺満子 大平正芳元首相の孫娘 メディアプロデューサー)


※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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