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2500年以上前の中国ですでに車馬祭祀の伝統が成立していたことが考古学調査で判明しました。写真は下站遺跡で発見された長方形の車馬坑。
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中国北西部の陝西省宝鶏市にある下站遺跡の合同考古学調査チームが15日に明らかにしたところによると、同遺跡では長方形の車馬坑が発見されました。今から2500年以上前の春秋時代(紀元前770~前453年)の車馬坑であり、現地を支配していた秦国では当時、王、諸侯、貴族の大型墓で車馬を陪葬する伝統がすでに成立していたことが判明したとのことです。
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秦漢の時代の「畤」と呼ばれる場所で行われた「畤祭」は、帝国の祭祀と政治の変遷を明らかにするものです。秦の襄公(在位:紀元前777年~前766年)が白帝を祭る場所である「西畤」を設けたことに始まり、漢の太祖(劉邦、在位:前202年~前195年)が黒帝を祭る場所である「北畤」を設けるに至って、都の付近に「雍五畤」が設けられることになりました。下站遺跡は青帝を祭った「密畤」で、秦宣公4年(前672年)に設立され前漢末期に廃止されるまで、600年余り利用されました。
考古研究者が下站遺跡で発見した長方形の車馬坑はそれぞれの構造や規模が近く、南北に整然と配置されており、設けられた年代も接近しています。これらの車馬坑はひどく盗掘されていましたが、玉器や玉製及び金製の車馬装飾品、青銅器の破片、漆器の薄片、馬の骨などが出土しました。
車馬坑から出土した金、玉製、銅製の車馬装飾品はいずれも豪華で精巧なもので、同じく宝鶏市で発見された秦の景公(在位:前576年~前537年)の陵墓の副葬品として使われた車馬の用具とほぼ同格でした。このことは、「密畤」での祭祀が当時秦の国の最高等級の祭祀活動だったことを裏付けます。
一方で、下站遺跡で発見された車馬祭祀坑では、車馬一式が大きな木箱の中に安置されていました。このことは同時期の大型墓の車馬坑とは異なっています。このように車馬を大きい木箱の中に置く方式は、宝鶏血池遺跡や呉山遺跡にも見られますが、祭祀坑の規模と車馬装飾の様式は異なり、(下站遺跡では)玉人、玉琮、玉璜といった祭祀用玉器のセットも見つかっていません。このことは、春秋時代から前漢にかけての「密畤」の祭祀で、車馬を用いる伝統は一貫していた一方で、変更もあったことを示しています。
下站遺跡の考古学的調査の責任者を務める中国国家博物館考古院の遊富祥副院長は、「今後は遺跡発掘作業をさらに進めて、秦以前の時代から前漢までの祭祀に関する遺跡の年代を細かく特定して分析することで、中国古代の祭天礼制の発展と変遷の過程を明らかにする予定だ」と述べました。(提供/CRI)
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