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およそ30年前の春、当時高校生の筆者は修学旅行で中国山東省威海市石島鎮にある法華院を訪れたことがある。「山東省は儒教の発祥地であり、なぜここに仏教のお寺があるの」と不思議に思っていた。
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およそ30年前の春、当時高校生の筆者は修学旅行で中国山東省威海市石島鎮にある法華院を訪れたことがある。「山東省は儒教の発祥地であり、なぜここに仏教のお寺があるの」と不思議に思っていた。
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数年後、筆者は留学先の日本の図書館で「円仁」という本に出会った。その本に出身地の「文登」という地名が出てきたので、好奇心で本を読んだ。本によれば、日本の天台宗第3代座主円仁大師は遣唐使船で中国へ仏法を求めるために、赤山にある法華院に身を寄せた時間は前後合わせて2年9カ月にも及ぶそうだ。赤山法華院は元々朝鮮人の張保皋が建てたお寺であり、1000年以上前に唐の武宗の「廃仏毀釈」で破壊されていた。現在の赤山法華院は1980年代に元の場所に再建された建築である。本文は赤山法華院の再建について、簡単に紹介する。
1000年以上前の遺跡を見つけることは決して容易なことではなかった。
戦時の1923年に日本の学者の大宮権平氏と松本穆堂(松平穆堂の可能性が高い)氏が山東省で円仁大師当時のルートに沿って何度も赤山法華院の遺跡を探したが見つからなかった。仕方がなく、中国・青島の市街で「慈覚大師山東遍路図碑」を建て、円仁大師入唐求法の壮挙を記念する。
1972年、中国と日本が国交を結んだ後、日本から「赤山法華院遺跡」について問い合わせの手紙が文登県政府に届いた(1000年以上前は赤山浦は文登県に管轄されていた)。文登県政府はその手紙を栄成県政府(赤山の今の管轄県)に転送したが、その手紙を受け取った人およびその周りの人たちはこれらの歴史を知らなかったため、そのまま放置された。また、1978年に赤山法華院遺跡を探すために威海市石島鎮にやって来る日本人学者がいた。学者は石島鎮で「赤山浦」という所を探していた。しかし、唐代では「赤山浦」という地名が今は「石島湾」へ改名したことをその学者は知らなかった。加えて、学者の持っていた資料は日本語で書かれていたため、言葉が通じないことが原因で地元の人々の助けをもらえなかった。学者は海岸に沿って西から東へ遍歴し何カ所も考察したが、失望して帰国した。
1981年12月に北京大学の宿白教授は山東省で行われたあるシンポジウムで日本の円仁大師および赤山法華院について言及し、歴史学者らはこれらの歴史を重視すべきだと指摘した。後に、山東大学の宋柏川教授は資料などを持参し石島鎮へ考察に来た。しかし、地元のガイドは教授を違う場所の石島鎮西山馬王廟あたりまで案内し、結果的に教授も失望して帰った。
1980年代初め、「県史」を編さんするために栄成県県史編さん事務室の呉徳永氏は北京図書館に行き、円仁大師の「入唐求法巡礼行記」をコピーした。赤山法華院遺跡考察事務室の田正祥氏は赤山法華院遺跡は歴史的価値が大きいと認識し、呉徳永氏と「共同研究」を決めた。両氏は円仁大師の「行記」に基づき、さまざまな研究・調査をしたが、価値のある発見はなかった。
1987年夏、日本から「泰山と山東半島の旅」という考察団が石島鎮にやって来る。目的は赤山法華院遺跡を見ることである。しかし、法華院遺跡はいまだに見つからず、考察団一行に見せるものはない。それでも、日本側は「必ず石島鎮へ見に行きたい」と堅持し、地元(栄成県)政府は「法華院遺跡を探す」プロジェクトを立ち上げ、副県長がプロジェクトリーダーとして全力を挙げて法華院遺跡を探そうとした。
前述の田正祥氏、呉徳永氏のほか、劉湖清氏、王洪釗氏らもプロジェクトチームに加えられ、円仁大師の「行記」に基づいて地元で聞き取り調査をしながら法華院遺跡を探した。プロジェクトチームが立ち上がって1カ月以上もたったある日、地元のお年寄りの王昭均氏は1944年に家を建てる時、地下から大量の瓦の破片が出てきたという情報を提供した。プロジェクトチームは王昭均氏の自宅に駆け込み、王氏の自宅よりやや高い所から周囲を見ると、「行記」に書かれた地理と完全に一致していることに驚いた。また、保存されている瓦の破片を考古学者に鑑定させ、国内外の考古学者は共にこれは唐代のものだと指摘した。これで赤山法華院遺跡は円仁大師の「行記」のおかげと地元政府の努力で、やっと見つかった。時は1987年6月15日だ。
1987年7月20日、日本から「泰山と山東半島の旅」考察団が石島鎮にやって来た。団長は奈良女子大学の千田稔教授であり、団員には京都大学の牧田諦亮教授や「朝日新聞」の高橋徹氏らがいた。いずれも歴史に詳しい専門家である。氏らは「法華院遺跡」と言われている所を「行記」を確認しながら慎重に考察していた。途中、いくつかの疑問もあったが、(栄成県の)プロジェクトチームの関係者らと意見を交流・交換しながら疑問を解いていった。考察団一行の日本帰国後、円仁大師ゆかりのお寺の赤山法華院遺跡が中国・石島鎮で発見されたという報道は「朝日新聞」の1988年10月18日と同月20日、11月29日の朝刊に掲載されている。
1988年7月1日、山東省威海市栄成県政府は「赤山法華院再建委員会」を成立させ、法華院再建を決めた。赤山法華院遺跡の発見は隣国韓国の専門家の興味・関心をも集めている。その後、赤山法華院、円仁大師、張保皋などを巡って中日韓3カ国の専門家らは何回かシンポジウムを行った。赤山法華院は1000年を超えて今でも中日韓3カ国を結ぶ紐帯となっている。
参考文献:張峡「石島・張保皋輿中韓友好関係史」 山東電子音像出版社 2002年3月
■筆者プロフィール:張燕波
中国山東省威海市出身。1998年に技能実習生として初めて日本へ。2000年から日本留学。06~12年にイオン九州に勤務。13~20年に神戸大学大学院修士課程、博士課程で日本の古典文学を研究。21年に帰国し、現在は山東省青島市の私立高校で日本語教師を務める。
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