中国空軍のパイロットを育成、筒井重雄氏が死去―中国メディア

Record China    2014年10月15日(水) 3時23分

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14日、「日本人八路軍」として知られる筒井重雄氏が、中国の抗日戦争勝利69周年の記念日まであと5日という8月28日、病気で亡くなった。

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2014年10月14日、「日本人八路軍」として知られる筒井重雄氏が、中国の抗日戦争勝利69周年の記念日まであと5日という8月28日、病気で亡くなった。享年94歳だった。同30日午後3時、長野県飯田市で盛大な葬儀が行われた。在日中国大使館の田培良参事官が来賓として最初に弔辞を読み、筒井氏が中国の抗日戦争と世界の反ファシズム戦争に果たした貢献を振り返った。人民日報が伝えた。

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筒井氏は1940年、南京に駐留する旧日本軍の航空部隊に配属された。1945年1月、飛行機の故障で不時着した山東省泗水県の河原で八路軍の捕虜となった。その後、日本人労農学校の山東分校に送られた。

筒井氏は、八路軍の根拠地で多くを経験し、観察し、思考し、真剣に勉強し、世界観を根本的に変化させた。中国に対して日本帝国主義が行っていた戦争が不正義の侵略戦争であることを知っただけでなく、このような戦争を永遠に消滅させ、日中両国の人民が永遠に友好的でなければならないことも悟った。

筒井氏はまっすぐな人だったので、見つけた真理のために奮闘する覚悟を決め、八路軍に参加し、日本人民解放連盟に加わった。日本の軍隊の内部の事情によく通じ、日本軍兵士の思想や心理、生活習慣をよく知っていた筒井氏は、日本軍兵士の感情、故郷を思う気持ちや厭戦の情に訴えかけ、「皇軍必勝」という日本軍の神話を揺さぶり、日本軍の戦闘の意志をしぼませた。

1945年8月15日、日本が敗北・投降した後、筒井氏は東北部に移動した。1946年9月、筒井氏は中国人民空軍の一員となった。航空学校は筒井氏を飛行教官に任じた。1946年3月に設立された「東北民主聯軍航空学校」では、1949年10月の中華人民共和国の建国までの3年半余りで、筒井氏ら日本籍の教官は120人のパイロットを育て、さらに14人の女性パイロットも養成した。ここで学んだパイロットたちは、中国空軍部隊を設立した際の中堅となった。

筒井氏は1958年、中国で知り合った妻の美治さんと中国で生まれた男の子と女の子を連れて、18年離れていた故郷に帰った。日本の警察のしつこい嫌がらせを受け、筒井氏は妻の故郷の長野県に引っ越し、果樹栽培を始め、まったく新しい生活を始めた。

生活は質素で、政治的なプレッシャーは大きかったが、日中友好の活動に積極的に取り組んだ。一生のうちでの重要な転換点を記念するため、筒井氏と戦友らは「航七会」を結成した。当時の中国東北の航空学校が1949年に「中国人民解放軍空軍第七航空学校」となったことから付けた名前だった。「航七会」は日中の友好に大きく貢献した。

「日本人八路軍」の筒井氏は、自らの経歴によって次の時代、子孫、より多くの人々に大事なことを伝えている。日中友好は決して平坦な道をたどってきたわけではなく、これを大切にし、守り、歴史を決して逆戻りさせてはならない。日中国民の友好が子々孫々に受け継がれていくことを祈る。(提供/人民網日本語版・翻訳/MA・編集/武藤)

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