<コラム>かつては独裁だった韓国、大統領が変わるとえげつない変化が訪れる

木口 政樹    2017年5月8日(月) 20時0分

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今回は忠清南道の南に続いている全羅北道と全羅南道を見てみよう。資料写真。

恨を抱いた土地・全羅道の中心地、光州。そんな影響かどうか分からないが、ここは昔から大きな事件が発生していることでも知られている。多くは血を伴ったものだ。例えばその一つが、光州学生独立運動である。1929年11月3日、日本統治下のど真ん中にある時期、全羅道のとある中学校の学生らが日本警察を相手にデモを起こし、大きな暴動にまで発展する事態となったもの。

その時デモに参加したというおじいさんと会ったことがある。会った時(2000年ごろ)は91歳だったか。牧師をしていた。91でも現役の牧師として元気にやっておられた。あれから17年もたっているが、まだ元気に暮らしているかもしれないとも思う。91歳のおじいさんではあったけれど、70歳くらいにしか見えなかったからだ。眼光鋭く声に張りがあり歩く姿は鋼のようであった。光州での学生運動を誇らしくまたありありと語るその姿が今も強くまぶたに焼き付いている。

1980年の光州民主化運動も、光州を世界に知らしめた出来事である。1980年といえば大昔のことではなく「最近」のことだ。ほとんど現代という時代に軍がいきなり市民目掛けて銃を撃ち大砲をぶっ放ったのである。民主化を叫ぶ光州市民の誰が、韓国軍が自分たちに発砲するなどと想像したであろうか。

80年5月18日に起こったこの「事件」は、韓国の民主化運動史の中で最も痛ましい、また最も重要なものとなった。5月18日の「5」と「1」と「8」を取って、「オ・イル・パル」と言われている。同じ韓国人が韓国人に向けて発砲し231人が犠牲となった。軍がこの事態を秘密にしようとして市に通じる道路をすべて封鎖したため、韓国内の新聞社などはその状況を伝えられずにいたのだが、外国人の特派員が本国の本社に電信し、そこで報道された内容を見て韓国の一般市民が事態の真相を知ったという、うそみたいな話が現実として起こっていたのである。外国人は皆知っていて当事者である韓国人だけが知らないという茶番のような話。しかしこの大きな犠牲が引き金となって韓国の民主化は大きく進むこととなった。この光州事件から7年後の87年6月29日、当時大統領であった盧泰愚(ノ・テウ)が「6・29宣言」をすることでそれまでの軍事政権からシビリアンコントロールつまり文民政府が登場することになったのである。光州市民の犠牲が最も大きな功であったことは言うまでもない。

■筆者プロフィール:木口政樹

イザベラ・バードが理想郷と呼んだ山形県米沢市出身。1988年渡韓し慶州の女性と結婚。三星(サムスン)人力開発院日本語科教授を経て白石大学校教授(2002年〜現在)。趣味はサッカーボールのリフティング、クラシックギター、山歩きなど。

■筆者プロフィール:木口 政樹

イザベラ・バードが理想郷と呼んだ山形県・米沢市出身。1988年渡韓し慶州の女性と結婚。元三星(サムスン)人力開発院日本語科教授、元白石大学校教授。趣味はサッカーボールのリフティング、クラシックギター、山歩きなど。著書に『おしょうしな韓国』、『アンニョンお隣さん』など。まぐまぐ大賞2016でコラム部門4位に選ばれた。

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