「一帯一路」は中ソ対決克服が起点=ユーラシアを越えた「国際公共財」目指す―石井東大名誉教授

Record China    2021年8月12日(木) 12時50分

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東アジアの国際関係に詳しい石井明東京大名誉教授が「一帯一路構想を歴史と新疆問題の中で考える」題して講演。中国とロシア・中央アジア諸国の地域協力機構が成長していくなかで、一帯一路構想が提唱されたという。

国際アジア共同体学会が主催する日中シンポジウムがこのほど東京の国会議員会館で開催され、有識者約100人が出席した。第一部の「米中新冷戦の展開、一帯一路構想と東アジア政治経済秩序の新動向」では、東アジアの国際関係に詳しい石井明東京大名誉教授が冒頭、「一帯一路構想を歴史と新疆問題の中で考える」題して講演。新疆地域がソ連解体前に、ソ連と直接国境を接し、中ソ対決の最前線に位置していたことなど歴史的な経緯と背景を解説。一帯一路構想は「長年にわたる中ソ対決を乗り越え、中国から中央アジアに至る地域の平和と安定を実現することを狙った」と指摘した。上海協力機構という地域協力機構をつくり、経済貿易関係を発展させ、中国とロシア・中央アジア諸国の地域協力機構から、周辺諸国をメンバーに加えた、大きな広がりを持った機構に成長していくなかで、一帯一路構想が提唱されたという。

「一帯一路」構想の対象地域はユーラシアに限らず、アジア、欧州、アフリカ、米州に及び、中国は同構想を「国際協力のプラットフォームであり、国際公共財である」と位置付けている。

◆石井明東大名誉教授の講演要旨は次の通り。

1.ロシア、モンゴルとの友好関係のなかで具体化

習近平国家主席が最初に「シルクロード経済ベルト」(一帯)建設を提案したのは、2013年9月7日、カザフスタンのナザルバエフ大学での講演においてであった。続いて、同年10月3日、インドネシア国会での演説で、習近平は、ASEAN諸国とともに「21世紀海上シルクロード」(一路)を建設しようと提案した。

翌年2014年9月11日、習近平は中国・ロシア・モンゴル首脳会談で、シルクロード経済ベルトを、ロシアが提唱してきたユーラシア経済同盟およびモンゴルの「草原の道」構想と結び付け、中国・モンゴル・ロシア経済回廊を作り上げようと提案した。三国首脳はこのとき、中国・モンゴル・ロシア経済回廊建設計画要綱に署名した。これは、「一帯一路」の枠組みのもとでの最初の多国間の協力を約した文書であった。「一帯一路」はまず近隣のロシア、モンゴルとの友好関係のなかで具体化が始まったのだ。

2015年3月28日、国家発展改革委員会、外交部、商務部が「シルクロード経済ベルトと21世紀海上シルクロード共同建設を推進するビジョンと行動」を発表し、「一帯一路」共同建設の原則、協力の重点、協力の仕組みなどについて、具体策を明らかにしている。シルクロード経済ベルトの重点協力方向としては、第1に中央アジア・ロシアを通ってヨーロッパに至るルート、第2に中央アジア・西アジアを通ってペルシャ湾・地中海に至るルート、続いて第3に東南アジア・南アジアを通ってインド洋に至るルートが挙げられている。シルクロード経済ベルトは、まず中国本土から西北部の新疆、そして中央アジアを通ってヨーロッパ、西アジアに向かって伸びていくことが想定されていた。

「一帯一路」構想の提唱を可能にした要因の第1が、中国経済の発展にあることは疑いない。2010年には中国は日本を追い抜いて世界第2の経済大国になっていた。報告者は、それに加えて、新疆から中央アジアにいたる地域の平和と安定が達成され、さらにこの地域が平和と発展に向かっていたことが考慮されるべきだと考えている。新疆は、ソ連解体前は、ソ連と直接、国境を接し、中ソ対決の最前線に位置していた。

2.ソ連・新疆関係(1945-1990)

中国の北方の領土は、1945年8月の中ソ友好同盟条約締結交渉の際、基本的に決定されている。ソ連は、米英ソの指導者が集まったヤルタ会談での了解に基づき、外モンゴルの独立承認を求めた。蒋介石は外モンゴルの「高度の自治」という妥協案を示すが、スターリンに拒否され、中国東北と新疆の確保を条件に外モンゴルの独立を認めざるを得なかった。当時、新疆には、ウイグル族やカザフ族など少数民族が、ソ連軍の支援を受けて、「東トルキスタン人民共和国」を打ち立てていた。

1945年8月14日、ソ連のモロトフ外相から中華民国の王世傑外相あて書簡(交換公文)で、ソ連は新疆において中国の内政に干渉するいかなる意思も有しないことを確認する、と述べ、新疆における中国の主権を認めた。その後、ソ連軍は新疆から撤退し、「東トルキスタン人民共和国」は消滅した。新疆におけるソ連の影響力はその後も残るのだが。

1949年10月1日、中華人民共和国が建国される。新中国は1955年10月、新疆に新疆ウイグル自治区を作った。その前年1954年10月12日、中ソ両国は、蘭州からウルムチを経由して、アルマティ(当時、カザフスタンの首都)に至る鉄道を建設することを取り決めた。当時は中ソ友好の時代である。2年後、鉄道建設ルートは、蘭州からトルクシブ鉄道のアクトガイ駅へと変更されるが、初めは、工事は順調に進んだ。しかし、中国側は1961年5月、ウルムチまでで工事を打ち切った(ソ連側は1960年初めまでに国境までのレール敷設工事を完成させていた)。中ソ関係の悪化に加え、大躍進政策の後遺症があり、国家財政が窮迫していたため、と考えられる。

翌1962年4月―6月、新疆・ソ連関係を決定的に悪化させる事件がおきた。カザフ族、ウイグル族などが大量の家畜を連れて、カザフスタンに逃亡したのである(ソ連側の数字では6万7千人。それに加え、1962年10月から翌年5月までに4万6千人以上)。1962年は3年連続の自然災害の最後の年にあたり、全国的に食糧不足に陥っていた。

中国側は、ソ連共産党指導部が新疆のソ連の機構と要員を通じて、中国公民をおびき寄せたり、脅迫してソ連領内に逃亡させた、と非難した。当時、毛沢東は、新疆の主要な危険はソ連現代修正主義からきている、と指摘している。ウルムチのソ連総領事館は閉鎖された。この事件以降、新疆の住民はカザフスタンの親族を訪問する際、わざわざ遠路、東北の満洲里を経由するルートを使わざるをえなくなった。

1969年8月、新疆の裕民県テレチク地区で中ソ国境守備隊が衝突し、中国側はソ連軍の侵攻に備え。9月30日、三北(西北・華北・東北)の全軍に戦闘準備命令を出した(林彪国防部長の1号命令)。その後、ソ連軍が攻めこんでくることはなかったが、軍事的対決状況は長く続いた。

1980年代にはいり、ようやく関係修復を目指す動きが始まった。中央アジア・新疆間の国境地帯で、両国公民の往来が回復されたのは1981年になってからであった。

同じ1981年12月、中国政府は、1975年に解消した新疆生産建設兵団を復活させる決定を下している。その狙いの一つは、ソ連勢力の破壊と浸透活動に対抗することだった。

1983年11月には中ソ国境通関港であるホルゴス経由の貨物輸送が再開され、新疆経由の中ソ貿易が再開された。

中断されていたウルムチからソ連国境間(北疆鉄道)の工事は1985年5月1日、メーデーの日に再開された。同年3月、ソ連ではゴルバチョフが書記長に就任している。中国では鄧小平が中ソ関係の正常化のイニシアチブをとっていたが、ゴルバチョフに登場により。中ソ関係の正常化が急速に進んでいった。

1985年、それまで外国人はソ連・新疆の国境通過が認められていなかったのが緩み始めた。報告者が中央アジアと新疆の境界を初めて越えたのは1986年だ。日本の旅行社主催の古代シルクロードの跡をめぐる天山北路の旅ツアーに加わり、その途中、10月14日、カザフスタンのアルマティからバスに乗り、国境を越えた。中ソ両国が第3国人の、中央アジア・新疆間の国境地点ホルゴスの通過を認めたのは、1985年からで、同年10月14日、イギリスの旅行団がホルゴスを越えた。イギリスのサッチャー首相が、ゴルバチョフにイギリス人のシルクロード・ツアーに便宜をはかるよう求めたのだ。1986年も前年同様、10月14日に限り(年間1日だけ)国境通過が認められ、イギリスの旅行社に加え、日本の旅行社もツアーを組んだのだ。

1989年5月、ゴルバチョフは自ら訪中し、トウ小平との間で中ソ関係が正常化したことを確認した。その翌年、1990年9月12日、北疆鉄道とカザフスタンの鉄道の連結が実現した。中国側は、これにより、中国の太平洋岸の連雲港からオランダロッテルダムに至る、新たな「亜欧大陸橋」(ユーラシア・ランドブリッジ)ができた、として喜んだ。

3.上海協力機構の結成

ソ連との国家関係・党関係を発展させようとしていた中国にとって思いもよらぬ事態がおきる。1991年12月、ソ連邦が崩壊し、連邦内の各共和国が独立したのである。12月27日、銭其琛外相は、各共和国の外相に電報を送り、独立承認を伝える。新生ロシアとの間では、平和5原則を中国・ロシア共和国関係の基礎とすることで合意する。

国境画定問題も、旧ソ連を継承したロシアだけでなく、カザフスタン、キルギス、タジキスタンとも交渉しなければならなくなった。その結果、次々と国境画定条約が結ばれた。1994年4月26日、中国・カザフスタン国境条約、同年9月3日、中ロ西部国境協定、1996年7月4日、中国・キルギス国境協定、1999年8月13日、中国・タジキスタン国境協定。

中ロ西部国境協定の調印時(1994年9月3日)に出された江沢民・エリツィン共同声明では、武力不行使、とくに核兵器の先制不使用の義務を負うことを表明し、双方が核兵器の照準を相手から外すことを約した。照準を外しても、それをもとに戻すことは簡単だそうだが、中ロが核兵器を擁して、相対峙してきた状況は去ったのだ。

中国とロシア・中央アジア諸国は、国境画定交渉を進める過程で、互いに相手に対する脅威認識を安心へと変化させることを目的とする措置をとることで合意する。こうした措置は信頼醸成措置(CBM)と呼ばれるが、中ロ及び中央アジア諸国が信頼醸成措置をとることで合意したことを文書にしたのが、1996年4月26日に調印された国境地区信頼醸成協定だ(上海で調印されたことから上海協定と称される)。この協定は、国境地区で互いに進攻せず、相手に対する軍事演習を行わず、軍事演習の規模、範囲、回数を制限し、また国境100キロの縦深地区の重要な軍事行動の状況を相手に通報し、軍事演習に相互にオブザーバーを派遣しあって、危険な軍事行動を防ぎ、国境警備隊の間の友好的な往来を約していた。

翌1997年4月24日、モスクワで国境地区軍事力削減協定が結ばれた。その主たる内容は、中国とロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタン双方が、国境地区の軍事力を善隣友好にふさわしい最低水準にまで削減し、防御的な性質のものだけに限定することだった。それに加えて、相互に武力を使用せず、あるいは武力による威嚇をせず、一方的な軍事的優勢を求めず、双方は国境地区に配備した軍事力を互いに進攻させず、国境の両側それぞれ100キロ縦深に配備した陸軍、空軍、防空軍航空兵力、国境警備隊の人員ならびに主要な各種兵器数量を削減・制限し、保持する最高数量を確定し、削減方法と期限を確定し、国境地区の軍事力に関係する資料を交換し、協定の執行状況について監督することなどを約束していた。

これら5か国は、「上海5国」(上海ファイブ)という体制を継続させることを決める。「5国両方」(中国対4か国)から、5か国が対等な立場で協議する「5国5方」に変わり、より広範な協力を進める方向に変わっていった。

2000年7月5日、タジキスタンの首都ドゥシャンベで第5回上海ファイブ首脳会議が開かれた。この会議では、地域の安全が主要な議題となり、三悪(民族分裂主義・国際テロリズム・宗教過激主義)の危険性が取り上げられた。この会議で出されたドゥシャンベ声明は、三悪勢力が地域の安全と安定と発展にとって主要な脅威である、とみなし、連合して打撃を与える決意を表明している。

上海ファイブの活動が活発になると、上海ファイブへの参加を希望する国が現れた。中国とは国境を接していないウズベキスタンである。2001年6月15日、上海ファイブの首脳が、ウズベキスタンの首脳を交えて上海に集まり、6か国の首脳会議を開き、上海協力機構の成立宣言と三悪に打撃を与える公約に署名した。

上海協力機構は中国語では、上海合作組織である。21世紀に入って最初にできた地域協力機構であるが、中国が積極的に設立に力を尽くしており、上海という中国の地名を付けることに、他の国は、異存はなかった。このとき、発出された宣言は、上海ファイブの設立と発展は、冷戦終結後の、人類の平和と発展を求める歴史的潮流に合致していたが、21世紀、政治多元化、経済と情報のグローバル化が急速に進むなかで、上海ファイブの体制をより高いレベルに引き上げることは、メンバー国が新たな挑戦と脅威に立ち向かううえで有利である、と指摘している。

新たな上海協力機構の趣旨としては、メンバー国間の相互信頼と善隣友好を強化し、政治、経済貿易、科学技術、文化、教育、エネルギー、交通、環境保護などの分野での加盟国間の有効な協力を奨励し、地域の平和と安全、安定を守り、保障するため共同で努力することをあげている。反テロだけでなく、広範囲の協力をめざす地域協力機構として発展させていくことを宣言したわけだ。

4.反テロ協力の推進

2001年6月15日、6か国の首脳が署名した、三悪に打撃を与える公約は、三悪について定義を下している。分裂主義については、国家領土の保全を破壊することを指す、とし、そのなかには、国家の領土の一部を分裂させたり、国家を分割させるため暴力を使う行為、このような活動を計画、準備、共謀、教唆する行為などが含まれる、としている。過激主義については、暴力を使って政権を奪取したり、政権を掌握したり、国家の憲法体制を変えたり、あるいは暴力的手段によって公共の安全を侵すことであるとし、そのなかには、このような目的を達成するため、不法な武装集団を組織したり、それに参加することも含まれる、としている。これは、メンバー国が共同で三悪勢力と戦う際の法的な基礎となるものだった。

アメリカで9・11同時多発テロ事件が起き、ブッシュ大統領が「これは戦争だ」と叫ぶ3カ月前、上海に中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの元首が集まり、上海協力機構を立ち上げ、反テロ国際協力を約した公約に署名していたのだ。

9・11事件の直後、2001年9月1日、カザフスタンのアルマティで上海協力機構加盟国の首相会議が開かれた。朱鎔基首相は、上海協力機構の反テロセンターを急ぎ設立しようと発言している。この会議は、国際テロリズムは、人類に対する重大な脅威であるとして、上海協力機構はすべての国家および国際組織と密接に呼応して、有効な措置をとり、テロリズムが持ち込むグローバルな危険を除去するために非妥協的な戦いを進める、という声明を出した。

9・11事件の直後、上海協力機構加盟国は相次いでアメリカの反テロ行動に支持を表明した。ウズベキスタンなどは自国内に米軍基地を置くのを認めた。中国も2001年10月、アメリカの要求に応じ、90キロの中国・アフガニスタン国境を閉鎖し、アフガニスタンにおけるアメリカの軍事行動を支持した。アメリカ軍も、アフガニスタンでは「東トルキスタン」テロ組織の基地と訓練キャンプをたたき、中国籍の「東トルキスタン」テロ分子を捕らえ、中国側と一緒に尋問している。

2002年8月、「東トルキスタン・イスラム運動」がアメリカの駐キルギス大使館に対するテロを計画しているのが発覚した。アメリカは「東トルキスタン・イスラム運動」をテロ組織のリストに加えた。同年10月、中国とキルギスは、テロリスト組織が、国際テロ組織の支援を受け、暴力テロを引き起こしたという想定で、軍事演習を行った。これは、中国が外国と行った初めての共同軍事演習であり、そのターゲットは東トルキスタン独立を目指すグループであった。

2003年8月には、上海協力機構加盟5か国による反テロ共同軍事演習が行われている。この演習はコード・ネーム「連合―2003」と名付けられ、第1段が8月6-8日、カザフスタンの東部国境地区で行われた。国際テロリストが旅客機を乗っ取って人質を取り、カザフスタン上空を侵犯したという想定での演習であった。第2段は、8月10-12日、新疆のイリ地区に国際テロリストが潜入し、武装拠点をつくり、テロ事件を起こす機会をうかがっているという想定であった。中国軍はこの演習に降下兵(パラシュート部隊)と人民武装警察部隊特殊部隊を動員して、テロリストを制圧した。

その後も反テロ軍事演習は繰り返されており、2006年に入ると、首都タシケントに反テロ常設機構が設置されたウズベキスタンで、3月下旬、上海協力機構加盟6か国がはじめてそろって参加した合同軍事演習「東方-反テロ2006」が行われた。この演習は、タシケントの2か所の「重要インフラ」へのテロ攻撃を想定し、特殊部隊や武装警官隊が破壊活動の静止や人質救出を目指す作戦を行った。続いて、9月22-23日、タジキスタン南部で、中国・タジキスタン合同軍事演習「協力-2006」が行われた。テロリストが、中国の支援で建設中の道路工事現場から両国民を拉致したとの想定で、空陸から火力を使って包囲し、人質を解放するという演習だった。

5.一輪車から二輪車へ――経済貿易協力の推進

このように、上海協力機構の活動は、反テロ協力が先行していた。しかし、上海協力機構が地域協力機構として発展していくためには、経済貿易面での協力が必要であることは、各国の指導者は当然、気付いていた。

2003年9月23日、北京での上海協力機構首相会議で、温家宝首相は、長期的地域経済協力目標を定め、上海協力機構自由貿易圏を徐々に建設することを提案した。2004年5月28日、タシケントでの上海協力機構加盟国経済・貿易担当閣僚の臨時会議でも、ウズベキスタンのアジモフ副首相兼経済相が、上海協力機構内部の経済貿易協力の加速は当面の急務であり、共同市場は国家間の一体化(統合)で最も有効な方法である、と述べていた。もっとも、温家宝もアジモフも、自由貿易圏や共同市場の建設を長期課題として考えていたのであり、一挙に建設しようと主張したわけではない。上海協力機構加盟国は段階を追って経済貿易関係を強化していくほかないことを認識していた。

2006年6月14日、上海協力機構第6回首脳会議開催の前日、同じ上海で上海協力機構実業家委員会が設立された。この委員会の任務は、上海協力機構の枠内での、経済貿易、銀行貸出、科学技術、エネルギー、交通、農業分野の協力の促進であった。中国と中央アジア諸国の経済貿易関係の拡大、上海協力機構の枠組み内での経済貿易関係の拡大のため、中央アジア側が最も必要としているのは、やはり資金である。中国側はその点を考慮し、上海協力機構第6回首脳会議のコミュニケによれば、中国は地域協力の拡大のために9億ドルの信用供与を約束している。

こうして上海協力機構の枠組み内での経済協力は、構想の段階から、中国が積極的なイニシアチブをとることにより、実務的協力を進める段階に進んでいった。上海協力機構は、地域経済協力が進むことにより、反テロ協力を進める一輪車から、二輪車になっていった。

この上海協力機構には多くの国が関与を希望しており、2004年にはモンゴルが、2005年にはインド、パキスタン、イランがオブザーバーの資格を得た。このうち、インド、パキスタンについては、2015年7月、ロシアのウファでの上海協力機構の会議で、正式加盟が認められた。2015年には、アルメニア、アゼルバイジャン、スリランカ、ネパールが対話パートナーとなり、ベラルーシは対話パートナーからオブザーバーに昇格した。

6.国際協力のプラットフォームに

「一帯一路」構想は、長年にわたる中ソ対決を乗り越え、中国から中央アジアに至る地域の平和と安定を実現し、上海協力機構という地域協力機構をつくり、経済貿易関係を発展させ、この地域の平和と発展をめざし、さらに中国とロシア・中央アジア諸国の地域協力機構から、周辺諸国をメンバーに加えた、大きな広がりを持った機構に成長していくなかで、提唱されたのである。

今や中国が「一帯一路」構想の対象とする地域はユーラシアに限らない。2017年5月、第1回「一帯一路」国際協力サミットフォーラムで、習近平は、「『一帯一路』建設は、シルクロードの歴史的土壌に根ざし、ユーラシア、アフリカ大陸に重点的に目を向け、同時にすべての友人に開放する。アジア、欧州は勿論、アフリカ、米州もみな『一帯一路』建設の国際協力パートナーである」と述べた。中国は「一帯一路」を、国際協力のプラットフォームであり、国際公共財である、と主張している。

今年は有効期限20年の中ロ善隣友好協力条約締結20周年にあたる。6月28日、両国は同条約の期限を延長するにあたり、共同声明を出した。同声明は。両国元首は、「一帯一路」の提案と「大ユーラシア・パートナーシップ」についての共通の認識を発展させていく、としたうえで、「一帯一路」建設とユーラシア経済同盟を結び付けることは、ユーラシア全体の経済の持続的、安定的成長を確保し、地域経済の一体化を強化し、地域の平和と発展を維持するのに重要な意義を有する、と指摘していた。

ユーラシア経済同盟とは、ロシア、ベラルーシ、カザフスタンが設立した経済同盟で、2014年5月29日、カザフスタンの首都アスタナで、創設条約に調印している。従って習近平はその直後に、シルクロード経済ベルトとユーラシア経済同盟を結び付けることに賛同していたのだ。その後、アルメニアとキルギスが加盟し、モルドバがオブザーバーとして加わった。正式発足は2015年1月。この組織は、商品、サービス、資本、労働力などの自由化を目指していた。

2016年6月、プーチンは、上海協力機構加盟国とユーラシア経済同盟のメンバーを合わせて「大ユーラシア・パートナーシップ」を構築するという構想を明らかにしている。「大ユーラシア・パートナーシップ」構築は2019年6月の中ロ共同声明にも記されており、今回の共同声明にも記された。ただ、ロシアの提唱するユーラシア経済同盟は、ヨーロッパ連合(EU)のような組織となることを目指しているのだろうが、メンバー国も増えず、活発な活動をしているとも思われない。「一帯一路」建設とユーラシア経済同盟を結び付けることはそう簡単ではない、と思われる。(主筆・八牧浩行

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