如月隼人 2019年2月5日(火) 16時0分
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日本でも「春節」という言葉が、かなり知られるようになりました。記事では「春節(旧正月)」のように説明を添えることが多いのですが、「春節」だけで理解する人も増えたのではないでしょうか。写真は春節の飾り。
今の中華民国、つまり台湾には「中国に比べて伝統文化をよく残している」とのイメージがありますよね。それはそうなんですけど、中華民国は本来、かなり過激な革命思想を持っていました。中国共産党がそれ以上に社会の、よく言えば「改変」、言い方を変えれば「伝統文化の破壊」をガンガンやるので、蒋介石が「われこそは、中華文明・中華文化の正統なる後継者」との政治宣伝のために、伝統文化を大切にするようになったというのが実情です。
▼旧正月の復活「春節」を許可したのは袁世凱
さて、新暦をいきなり導入した中華民国でしたが、民衆はなかなかついていけない。不満の声も大きかったのでしょう。そこで、1913年7月に北京政府が袁世凱大総統(大統領)に「わが国の旧俗には毎年四季の行事がある」として、「旧暦の元旦を春節、端午(旧暦5月5日)を夏節、中秋を秋節、冬至を冬節の名称にして、それぞれ国民の休日とする」と提案したそうです。
袁世凱は春節を休日にすることは認めましたが、夏節、秋節、冬節は認めませんでした。そのため、春節以外は顧みられることがなくなったということです。
つまり、言葉としての「春節」が定着したのは、中華民国が発足した後という、長い中国史からすれば本当に新しい出来事ということになります。一方の「元旦」は、旧暦の1月1日から新暦の1月1日への“引っ越し”を余儀なくされたわけですが、言葉としてはずっと古くから存在したわけです。
▼戦後に台湾に来た国民党政権は春節を白眼視
ここで気になるのは台湾の「旧正月事情」です。なにしろ、辛亥革命の発生時、あるいは中国が旧暦から新暦に移行したり、「春節」なんて言葉が登場した当時、台湾は日本領でした。日本統治の開始にともない、すでに「日本の暦、つまり新暦に統一せよ」ということになっていたわけです。
台湾で旧正月は公式の祝日として残りませんでしたが、台湾人は民間行事として祝いつづけました。日本統治時代初期には、台湾に渡った日本人も旧暦の意識が強く残っていたようで、旧正月に併せて年越しを祝っていたという記録もあります。しかし、日本人の意識からは旧暦による年越しの感覚が次第に薄れ、新暦の正月を「日本正月」、旧暦は「台湾正月」といった呼称も発生したようです。
戦後になって台湾にやってきた中華民国の高官は、台湾人が旧正月を盛大に祝っていることを白眼視しました。先ほどもご紹介しましたが、中華民国にはもともと、「革命思想」が強かったわけです。
特に、辛亥革命当時の「熱気」を受け継ぐ国民党の高級幹部は旧正月を「旧弊な風習」と考え、役所の職員には旧正月にもとづく年始回りを禁止したほどと言います。1960年代になっても台湾の旧正月の休みは1、2日。70年代になってやっと3連休になり、その後やっと、政府機関も4、5日の休みを取るようになったそうです。
■筆者プロフィール:如月隼人
1958年生まれ、東京出身。東京大学教養学部基礎科学科卒。日本では数学とその他の科学分野を勉強し、その後は北京に留学して民族音楽理論を専攻。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業とするようになり、ついのめりこむ。毎日せっせとインターネットで記事を発表する。「中国の空気」を読者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執筆。中国については嫌悪でも惑溺でもなく、「言いたいことを言っておくのが自分にとっても相手にとっても結局は得」が信条。硬軟取り混ぜて幅広く情報を発信。 Facebookはこちら ※フォローの際はメッセージ付きでお願いいたします。 ブログはこちら
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